甲子園の風BACK NUMBER
なぜ古豪は甲子園から「姿を消した」のか…76年前に夏連覇、元祖“甲子園の土”の名門・小倉高校が半世紀無縁の聖地を今真剣に目指すわけ
text by
内田勝治Katsuharu Uchida
photograph byKatsuharu Uchida
posted2024/08/20 11:01
夏2連覇の記念碑の前に立つ中島監督。今は県内の進学校と認識されることのほうが多い
小倉は、福嶋が卒業後の1954年春には2度目の選抜準優勝を果たすなど、戦後の高校野球界をリード。左胸に独特な字体の「K」のみが入ったシンプルなユニホームは、羨望の眼差しで見られた。中島監督も中学時代、福岡県大会を戦う小倉をテレビ観戦し、「カッコいいな」と憧れ、入学した一人だ。
夏の甲子園から遠ざかること68年…
ただ、その名門は、1978年春を最後に聖地から遠ざかっている。夏に限っては、1956年以来、68年間出場していない。福岡屈指の進学校という側面を併せ持つため、選手補強はままならず、練習時間も限られる。近年は私学の台頭に加え、同じ北九州市内で同じ校是「文武両道」「質実剛健」を掲げるライバルの東筑に押され、低迷を続けている。
伝統校ゆえに監督の双肩にかかる期待と重圧も大きく、自身の方針を浸透できないまま、志半ばで交代することも少なくない。昨夏の福岡大会は、高校通算53本塁打の捕手・河野戴駕(現九州産業大)を擁しながらも、苅田工に6-7で初戦敗退し、土井崇正監督が退任。後任として、その春に折尾高の監督から母校に戻っていた中島部長に白羽の矢が立った。
「ずっと折尾高校でやるつもりで、選手も色々集めていたのですが、小倉高校への異動を伝えられた時は言葉が出ませんでした。でも、部長で支えていこうと4月からやってきて、夏の初戦でああいう形で負けてしまって、急に監督の話が出てきたので、それもびっくりしました」
母校に戻ることも、その3カ月後に監督として再び伝統のユニホームに袖を通すことも想定していなかったが、覚悟を決めた。