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「ずっとそばにいてくれて、ありがとう」ナイスネイチャ35歳の大往生を見届けた渡辺牧場の思い…引退馬支援を支えた“共感を得る力” 

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曹宇鉉

曹宇鉉Uhyon Cho

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photograph byDaisuke Asauchi

posted2023/06/04 11:03

「ずっとそばにいてくれて、ありがとう」ナイスネイチャ35歳の大往生を見届けた渡辺牧場の思い…引退馬支援を支えた“共感を得る力”<Number Web> photograph by Daisuke Asauchi

5月30日に35歳でこの世を去ったナイスネイチャ。多くの人に愛されながら、生まれ故郷の渡辺牧場で幸福な余生を過ごした

 1993年も日経新春杯2着、阪神大賞典3着、産経大阪杯2着、毎日王冠3着と、勝ちきれないレースが続く。天皇賞・秋とジャパンカップを大敗して迎えた同年の有馬記念、同期のトウカイテイオーが“奇跡の復活”を遂げるなか、ナイスネイチャは10番人気ながら3年連続の3着に食い込み、ついに「ブロンズコレクター」と呼ばれるようになった。

 1994年の高松宮杯でおよそ2年半ぶりの勝利をあげたナイスネイチャは、同年末も有馬記念に出走(5着)。さらに翌1995年も現役を続け、5年連続の有馬記念出走(9着)という偉業を成し遂げた。

 通算成績は4つの重賞勝ちを含む41戦7勝。1600mのマイルチャンピオンシップで3着(1992年)、3200mの天皇賞・春で4着(1994年)と距離を問わず、息長く活躍し、獲得賞金は6億円を超えた。そして実績以上に、ファンに愛された馬だった。引退後の1999年には、新たに導入されたワイド馬券のキャンペーンキャラクターにも起用された。

存続の危機に陥った渡辺牧場を救った縁

 種牡馬となったナイスネイチャだったが、種付け頭数は伸び悩み、2001年に種牡馬登録を抹消。生まれ故郷の渡辺牧場に舞い戻る。渡辺さん夫妻は「未勝利馬であっても、生産した馬はできるかぎり引き取る」という方針を掲げていたが、不況の煽りを受けて経営状況が悪化。一時は牧場の存続も危ぶまれる状況に陥っていたという。

 引退馬の支援活動を行う認定NPO法人・引退馬協会の沼田恭子代表理事はこう語る。

「私たちが最初に活動を始めたころは、『いったい馬の平均寿命って何歳?』と思うくらい、天寿を全うできる馬があまりにも少なかった。そんななかでも、渡辺牧場さんは昔から引退馬を大事にする牧場でした」

 ナイスネイチャの弟にあたるグラールストーンが、引退馬協会の前身の会の「フォスターホース」(複数の里親による支援を受ける制度)第1号になった縁もあり、同会は志を同じくする渡辺牧場からナイスネイチャ、母のウラカワミユキ、そして重賞馬のセントミサイルの3頭を引き取った(繋養先は引き続き渡辺牧場)。「牧場がつぶれても、なんとか馬たちだけは……」という悲壮な思いを抱いていた渡辺さんは、「本当に厳しい時代でしたから、毎月の預託料収入が本当にありがたかった」と深く感謝する。

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