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旧将棋会館の娯楽室は“堕落室”?「棋士+雀士の二刀流」鈴木大介九段、大山康晴十五世名人も熱中…“将棋と麻雀マル秘エピソード”
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph bySankei Shimbun
posted2023/05/30 06:00
棋士と雀士の二刀流プロになることを決断した鈴木大介九段(左)
現代の棋士で麻雀愛好者は、ほかに阿久津主悦八段、青嶋未来六段、井出隼平五段、香川愛生女流四段らがいる。
大山名人にとって麻雀は盤外戦術の小道具?
昔の棋士たちは、麻雀にかなり熱中していた。
1960年代にタイトル(当時は五冠)をほぼ独占していた大山康晴十五世名人は、タイトル戦の対局で麻雀を楽しむみたいがためのように全国を転戦していた。
大山は対局場に着くと麻雀卓をすぐに用意させ、立会人や記者など関係者と麻雀を打った。現代のように前夜祭の催しはない時代だった。麻雀は対局前日、1日目の夜、2日目の終局後と、連日に及んだ。対局中には、大山が関係者を指名して控室で麻雀を打たせ、たまに立ち寄って観戦した。だから、麻雀を打たない人は大山に疎んじられた。大山が「立会人は麻雀を打てる人にしてほしい」と、注文をつけることもあった。
私こと田丸が修業時代に記録係を務めたあるタイトル戦の対局で、不思議な光景を見た。1日目の封じ手を定刻の2時間前に行うことを、大山が立会人を通して挑戦者に持ちかけたのだ。その2時間分は、両対局者の直前の指し手の消費時間に1時間ずつ加え、「みなし長考」したとするもの。大山の提案に対して、従順な性格の挑戦者は断り切れなかったようで、陽の高い時刻に封じ手となった。その後、対局者や関係者で麻雀が打たれた。
それにしても、大山はタイトル戦の対局場でなぜ麻雀三昧に過ごしたのだろうか。大山にとって麻雀は、スポーツ選手のストレッチ体操みたいなもので、頭をほぐして気分転換になったようだ。また、対局場の仕切りを自分のペースにすることで、挑戦者を盤上でも丸め込んでしまう意図があったと思う。麻雀は盤外戦術の小道具だった。
旧将棋会館の「娯楽室」では麻雀が打たれていた
麻雀好きの昔の棋士は、ほかに丸田祐三九段、芹沢博文九段、加藤博二九段、花村元司九段などで、いずれも強かった。
丸田は使い慣れた麻雀牌だと、竹の目の模様やキズで半数ぐらいの牌を覚えていたという。芹沢は10代の頃から麻雀荘に入り浸り、棋士になってからは対局の後はいつも徹夜麻雀だった。加藤は週刊誌が企画した著名人麻雀大会で優勝した。花村は元真剣師(賭け将棋を生業にする人)らしく勝負強い打ち方をした。
木造2階建てだった東京・千駄ヶ谷の旧将棋会館には、「娯楽室」という棋士の控室があり、昼夜にわたって麻雀が打たれていた。棋士たちから灰皿の取り換え、タバコの買い出し、お茶の用意、食事の出前などで、雑用を言いつけられた奨励会員(棋士の卵)は、あの部屋は娯楽(ごらく)室ではなく、堕落(だらく)室だと陰口をたたいた。