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“世界で一番強い男”モハメド・アリはなぜ日本でアントニオ猪木と対戦したのか?「どうせ実現できっこない話」が真実味を帯びた瞬間
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/04/21 17:00
1976年6月26日、日本武道館で対決したアントニオ猪木とモハメド・アリ。「格闘技世界一決定戦」と銘打たれた同試合は全世界の注目を集めた
アリの周りは、話題であふれていた。報道陣も常にアリの周りを取り囲んでいた。フラッシュが焚かれる中、アリは拳を振り上げて声を張り上げている。当時、プロレスラーでもないのに、そうしたパフォーマンスをするアスリートはいなかった。私から見ても、アリを中心に世界が回っているという錯覚さえ起こしてしまうくらいパワーがあった。
ベトナム戦争では、アメリカという巨大な国家と戦った。徴兵を拒否した結果、ボクシングの世界タイトルを剥奪されて禁固5年、罰金1万ドルを言い渡された。控訴により収監は免れたが、リングから遠ざかることになった。
公民権運動やベトナム反戦運動のアイコンに
アリは大学を回って講演会を行い、長引くベトナム戦争に対する反戦活動を続けた。マルコムXやマーティン・ルーサー・キング牧師に象徴される公民権運動にも参加して、反戦感情をアメリカの家庭内へと広めた。
アリを応援する意味も含めて、1968年のメキシコ五輪では表彰台に上がったアメリカの黒人選手が黒い手袋をはめ、下を向いて抗議したこともあった。
アリの有罪判決が最高裁で破棄されるのは1971年6月だが、前年にニューヨーク州裁判所がアリのボクシング・ライセンスの復活を認めて、試合ができるようになった。この頃、アリはアメリカの若者たちの間で考え方を共有できる大きな存在になっていた。
遡ることその約10年前、アリは1960年のローマ五輪でライトヘビー級を制覇。金メダリストとして故郷に戻ったが、レストランに入れてもらえなかったという。輝かしい栄冠を掴んでも、人種差別という現実は変わらなかった。金メダルをオハイオ川に投げ捨てたという話は本当ではないかもしれないが、メダルがなくなってしまったことは事実だ。
プロになったアリは、1964年にソニー・リストンをKOして世界ヘビー級王者になった。翌年、カメラマンのニール・ライファーが撮ったリストンとの防衛戦の写真は、あまりにも有名である。アメリカの『スポーツ・イラストレイテッド』誌に最初に掲載されたものだが、ダウンしたリストンに対し、アリがヒジを折り曲げて叫んでいるシーンだ。アリを語る時、この一枚の写真は必ず出てくる。
日本において1963年11月、ジョン・F・ケネディ大統領がダラスで暗殺された時が宇宙中継の始まりになる。この「宇宙中継」という言葉はインパクトのある響きだった。当時、アリの試合やボクシングの世界ヘビー級戦を見るなら宇宙中継。いつから「衛星中継」という呼び名に変わったのだろうか。アリは9度世界王座を防衛した後、ボクシング界から追放された。