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小林陵侑「2本目、沙羅もすごくいいジャンプを」原田雅彦が味わったバッシング、葛西紀明も… どう絶望・悲劇を乗り越えたか 

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posted2022/02/10 17:00

小林陵侑「2本目、沙羅もすごくいいジャンプを」原田雅彦が味わったバッシング、葛西紀明も… どう絶望・悲劇を乗り越えたか<Number Web> photograph by Naoya Sanuki/JMPA

ジャンプ混合団体で大ジャンプを見せた小林陵侑。傷心の高梨沙羅を気遣うコメントも残している

 リレハンメル五輪、葛西紀明、西方仁也、岡部孝信、そして原田の男子ジャンプ団体は悠々と金メダルへとフライトしていた。ラストジャンパーは93年の世界選手権を制覇した原田で、K点120mのジャンプ台で105mを飛べば優勝確定という状況だった。しかし、原田のジャンプは97.5m。銀メダルに終わったのだった。

 金メダルを逃したことで、バッシングを受けた原田。一時はスランプに陥ったものの、トップフォームを取り戻し、1996-97シーズンの世界選手権で日本人初となる個人ラージヒル優勝の偉業を成し遂げた。

 その頃、原田はこんなふうに語っていた。

「それでも自分の納得できるジャンプを心掛けないと。難しい問題ではありますが、でもそれができたときは凄く嬉しいですね。その頑張りは世間からはまったく評価されませんけど」と語っていた。

 それから1年――雪が降りしきる中で、長野五輪での大ジャンプと「ふなき~、ふなき~」とつぶやきながら船木和喜を涙ながらに見つめ、団体金メダルを獲得した姿は日本中を泣き笑いさせた。

葛西が6度目の五輪でようやく納得できたジャンプとは

<名言3>
メダルを獲れなかった悔しさはありますけれど、最後の最後にいいジャンプができて悔いはないです。
(葛西紀明/Number749号 2010年3月4日発売)

◇解説◇
 日本ジャンプ界を代表する実力者でありながら、五輪でなぜか伸びない――若き日の葛西には不運の名ジャンパーというイメージがつきまとった。原田の項で触れたリレハンメル五輪と団体メンバー落ちした長野五輪、そして2002年ソルトレークシティ五輪では個人2種目ともに40位台など、とにかく結果が出なかったのだ。

 そんな葛西がようやく、五輪で納得いくジャンプをできたと語ったのが6度目の出場となる2010年バンクーバー五輪だった。団体戦最終ジャンパーである葛西が飛ぶとき、日本の順位は6位。メダルはその時点で絶望的だったが、K点を超える大ジャンプを見せた。

「6回のオリンピックで初めて満足の行くジャンプができました。140m、出ましたね」

 2010年の時点で37歳だった葛西だが、さらなる進化を見せたのはここからだった。13-14シーズン、W杯史上最年長となる41歳7カ月5日での優勝を成し遂げ、ソチ五輪ではラージヒル個人銀メダルを手にして、団体でもエースとして銅メダルをもぎ取った。今もなお「41歳256日」は、冬季日本人史上最年長のメダル記録である。

【次ページ】 高梨が世界屈指の名ジャンパーである証の数々

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