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ギル・ホッジスと渋い野球人たち。殿堂入りした顔ぶれに見る「見逃し委員会」の文化成熟度 

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芝山幹郎

芝山幹郎Mikio Shibayama

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photograph byGetty Images

posted2021/12/18 06:00

ギル・ホッジスと渋い野球人たち。殿堂入りした顔ぶれに見る「見逃し委員会」の文化成熟度<Number Web> photograph by Getty Images

ブルックリン・ドジャース時代のギル・ホッジス。現役時代はメッツでもプレーし、監督としてはセネタース、メッツで指揮を執り69年にはメッツでワールドシリーズを制覇した

 1956年、ブルックリン・ドジャースが日米野球で来日したとき、私はホッジスの姿を白黒テレビで見てファンになった記憶がある。この年を限りに引退したジャッキー・ロビンソンや、強打の中堅手デューク・スナイダーよりも、ホッジスのほうが渋い輝きを放っていたからだ。

 ホッジスはこの時期、打者としてピークを迎えていた。49年から59年の11年間に絞ると、平均30本塁打、101打点を稼ぎ出している。63年に引退したときの通算本塁打数は370本。当時、通算本塁打数が彼よりも多い右打者は、ジミー・フォックスとウィリー・メイズの2人しかいなかった(ラルフ・カイナーは369本、ジョー・ディマジオは361本)。

 これだけでも立派なものだが、彼は守備力にもすぐれていた。手足が長く、動きが柔軟で、かつて中日ドラゴンズの主砲だった西沢道夫(一塁手)をちょっと連想させるところがあった。のちに知ったことだが、ホッジスはバント処理が抜群に巧く、ダッシュして打球をつかみ、元捕手だった強肩を生かして一塁走者を二塁で封殺するプレーをしばしば見せていたようだ。

現代に通じる野球観

 監督としてのホッジスは、日本でいうツー・プラトーン攻撃を考案し、先発投手5人制を採用したことで知られる。若手が多く、体力に不安のあるメッツ投手陣を守るための措置だったが、その野球観は当時ずば抜けて斬新だったと評価されている。それほどの実績を残しながら、長らく殿堂入りを果たせなかったのは、選考委員が、「選手として評価すべきか」、それとも「監督として評価すべきか」という二項対立に悩まされていたせいかもしれない。「ハイブリッド」という尺度を導入すれば、この問題はあっさりと氷解するのだが。

 ホッジスは1972年4月、フロリダ州ウェストパームビーチのゴルフ場で心臓発作を起こして急死した。春季トレーニングの終盤で、コーチたちと一緒にラウンドしているさなかの異変だった。47歳の若さで、日本の新聞でも報道されたことを覚えている。

 昨今の選手ばかりではなく、こういう人物を尊重するのは、MLBの美点だと思う。たまには、ニュース速報やセイバーメトリクスから離れて野球を考えるのも楽しいことではないか。いつの日か、「日本人選手のMLB参入に道を開いた」野茂英雄の功績を評価してくれると嬉しいのだが。

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