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サイレンススズカはなぜ天皇賞・秋で骨折し“安楽死”したのか? 「殺さないで」ファンの声で手術をしたテンポイントは42日後に…
text by
江面弘也Koya Ezura
photograph byTomohiko Hayashi
posted2021/10/31 06:01
98年の宝塚記念にて、エアグルーヴら強豪を押さえGI初勝利を収めたサイレンススズカ
78年。凱旋門賞を最終目標としたヨーロッパ遠征の壮行レースだったはずの日経新春杯で66.5kgというハンデを背負ったテンポイントは、4コーナーにさしかかったとき、突然、腰から落ちた。
「左後第三中足骨哆(し)開(かい)骨折、第一趾骨複骨折」。左うしろ脚の蹄の上部の複雑骨折だった。獣医師の診断は予後不良である。オーナーの高田久成氏は一晩だけ猶予をもらい、熟考の末に、楽にさせてあげようと思った。ところがそこに「テンポイントを殺さないで」という電話が殺到し、高田氏は、ファンの声に押しきられるかたちで手術に踏みきった。
日本中央競馬会は獣医師33人によるチームを組み、砕けた骨を4本のボルトでつなぎ合わせる前例のない大手術をおこなった。術後の経過は連日メディアで報道された。一時は体温も心拍数も良好と伝えられたが、やがて右後肢の蹄が耐えられなくなり、蹄葉炎を発症する。そして事故から42日後の3月5日朝、テンポイントは息をひきとった。
おなじように、87年の有馬記念の事故で左前脚の繋靱帯断裂と脱臼で予後不良と診断されたサクラスターオーも4本ボルトで患部を固定する手術が施され、137日間頑張ったが、最後は安楽死処置がとられた。
痛ましい事故が減りつつある理由
その一方で、患部をボルトで固定する手術で再起できた馬もいる。わたしの記憶にある最初がヤマニングローバルである。89年、無敗の3連勝でデイリー杯3歳ステークスに勝った直後、右前第一種子骨の複雑骨折が判明する。父ミスターシービーにつづく三冠馬という声もあった大器は安楽死になっても不思議でなかったが、浅見国一調教師の強い意向で手術を施された。そして1年2カ月後、ヤマニングローバルは競馬場に帰ってくる。ふたたび走れただけでも奇跡なのに、7歳の春まで競走生活をつづけ、目黒記念とアルゼンチン共和国杯に勝った。92年秋の天皇賞(3着)ではゴール前で先頭にでるかという、夢のような瞬間もあった。
こうして書いてきて、最近は痛ましい事故がすくなくなったように感じる。名馬の悲劇もすくなくなった。その理由としては、厩舎だけでなく、育成牧場での馬の健康管理がゆきとどいてきたことがある。競馬場のコースも整備され、とくに芝コースはクッションの利いたコースになった。テンポイントの時代とは雲泥の差である。加えて獣医学の発達がある。過去の事故から学び、あたらしい手術技術が導入され、治療法も格段に向上した。
それでも、競走馬にとってレース中の事故はつきものである。一歩間違えば命取りになるのだ。だから、わたしたち取材者がレースへの意気込みを訊ねると、関係者は決まって同じことばを口にする。
「まずは無事で帰ってくること。勝ち負けはそのつぎです」
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。