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サイレンススズカはなぜ天皇賞・秋で骨折し“安楽死”したのか? 「殺さないで」ファンの声で手術をしたテンポイントは42日後に…
posted2021/10/31 06:01
text by
江面弘也Koya Ezura
photograph by
Tomohiko Hayashi
11月1日はサイレンススズカの命日だ。あの天皇賞の事故からもう23年になる。
1998年、4歳になったサイレンススズカは6戦6勝で、すべて逃げきりだった。いまでも語り種となっている金鯱賞の大差勝ち。唯一のGI勝利となってしまった宝塚記念。3歳のグラスワンダーとエルコンドルパサーをよせつけなかった毎日王冠。速く強い中距離ランナーに成長した小さな栗毛は、あの天皇賞を逃げきり、翌年は両親の故郷アメリカでそのスピードを披露するはずだった。
1枠1番。仮柵が外された東京競馬場のインコースは最高の馬場コンディションだった。どうぞ思う存分逃げてください。競馬の神様もサイレンススズカに囁いていた。
「天皇賞の歴史になるようなレースをしたい」
レース前、武豊騎手は自信たっぷりに語っていた。「今回もオーバーペースで逃げます」と、リップサービスも忘れずに。
わたしたちファンもそれを望んでいた。いつものようにハイペースで逃げて、逃げきる、歴史的なシーンが見られると確信していた。1.2倍の単勝オッズがそれを物語る。
しかし。約束どおりに最初の1000mを57秒4で飛ばして逃げ、2番手以下を大きく引き離して3コーナーをまわったとき、事故が起きた。
左手根骨粉砕骨折――。
左前脚の手根骨(正確には手首の骨になるが、馬の前肢を人間の腕に見立てたとき、肘にあたる箇所)が砕けていた。予後不良と診断され、安楽死の処置がとられたのだった。
ダービー馬やライスシャワー…安楽死となった名馬たち
サイレンススズカのように骨折や関節の脱臼が原因でレース後に安楽死となった名馬は過去に幾頭もいた。
67年阪神大賞典。ダービー馬キーストンは先頭でゴールに向かう直線で骨折した。ファンが見守るなか、傷めた脚をぶらつかせながら落馬した山本正司騎手に鼻面を寄せていったという話はずっと語り継がれている。
73年高松宮杯。宝塚記念につづいて逃げきり濃厚だったハマノパレードは直線で前のめりに倒れた。
74年京都牝馬特別。このレースを最後に引退するはずだった快速馬キシュウローレルは、3コーナーの坂のくだりで転倒、立ち上がって歩きだした姿が最後になった。
84、85年のスワンステークス。ロングヒエン、シャダイソフィアと、きれいな栗毛の快速馬が2年つづけて逝った。
85年阪神大賞典。ノアノハコブネは1周めのスタンド前で骨折した。オークスを制した6カ月半後の悲劇だった。
95年宝塚記念。名ステイヤー、ライスシャワーは菊花賞と天皇賞に勝った京都競馬場の3コーナーで倒れた。
96年京都牝馬特別。桜花賞馬ワンダーパヒュームが故障したのも京都の3コーナーだった。
そして97年。中央と地方のダート交流戦のヒロインだったホクトベガは遠くドバイの地で散った。