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「兄貴の死を境に、恐怖心を克服できたんです」野球歴”わずか3年“でプロ入りした故・大島康徳さんが闘病中に語った”死生観“
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byKYODO
posted2021/07/08 17:02
1985年、ナゴヤ球場でHRを放つ大島康徳さん
取材した話に戻そう。テーマは「代打本塁打」。まだ大島さんの背番号が5ではなく、40だった1976年のことである。通算382本塁打を放つスラッガーは、代打では歴代2位の20本(中日で16、日本ハムで4)打っている。うち7本がこのシーズンに集中している。これは今なお破られぬ日本記録であり、当時は世界記録として扱われた。
内訳はナゴヤ球場が5で神宮が2、ヤクルトが4で阪神が2、広島が1。6月に一気に4本上積み、加速した。ただし、この種の記録にはつきものだが当時は25歳。代打で結果を残さないことにはその先もないが、いつまでもその地位に甘んじているつもりもなかった。
「記録をつくったなんて思いはなかったと思いますよ。あの頃の自分は試合と打席に飢えてましたから。もっと俺を使え、試合に出せ、4打席よこせって感じでしたね」
「兄貴の死を境に、恐怖心を克服できたんです」
7本目を打ったのは8月10日。5本目も打っていたヤクルト・会田照夫からだった。「苦手だった」という下手投げ。プロ初打席も初安打も会田だったというのは何とも珍しい偶然だ。結局、この年は11本塁打を放ち、打率は.251。まだ後に名球会員となるほどの成績ではない。大島さんによると転機はこの世界記録ではなく、翌77年に訪れたという。
「5月に兄貴が亡くなったんですよ。あれで野球への取り組みが本当に変わった。自分の中に芯が入ったという感じ。見ていてくれよ。そう思ってやってました。いや、それまでも一生懸命にやってはいたんですよ。ところが内角球が気になっていた。そんな恐怖心が兄貴の死を境に克服できたんです」
2歳違いの兄・隆さんが28歳の若さで他界した。白血病だった。過度に意識していた内角球への対処が変わり、27本塁打を放った。あれほど確実性の低さを指摘されてきた打率は.333を記録した。