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「兄貴の死を境に、恐怖心を克服できたんです」野球歴”わずか3年“でプロ入りした故・大島康徳さんが闘病中に語った”死生観“

posted2021/07/08 17:02

 
「兄貴の死を境に、恐怖心を克服できたんです」野球歴”わずか3年“でプロ入りした故・大島康徳さんが闘病中に語った”死生観“<Number Web> photograph by KYODO

1985年、ナゴヤ球場でHRを放つ大島康徳さん

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小西斗真

小西斗真Toma Konishi

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KYODO

 大島康徳さんが亡くなっていた。6月30日に息を引き取り、親族らにより葬儀を済ませたと7月5日に公表した。

野球歴3年で受けた、ドラフト3位指名

 1950年に大分県中津市で生まれた。中学時代はバレーボール部に所属し、県選抜に選ばれたほどのアタッカーだった。その身体能力の高さを見込まれて、相撲部や陸上部(砲丸投げ)の助っ人としてもかり出されていた。そんな怪童のうわさが、中津工野球部監督の小林昭正の耳に入った。自宅に野球用具一式を持ってきて熱く勧誘された。このときの恩師との出会いがなければ、全く違う人生を歩んでいたことだろう。

 1969年に中日入団。野球歴わずか3年の少年を、ドラゴンズはドラフト3位で指名した。同期の1位は星野仙一だった。粗削りながら長打力に秀でており、中日ファンには「燃えよドラゴンズ」の歌詞にある「一発長打の大島くん」で親しまれていた。74、82年のリーグ優勝に貢献し、83年には本塁打王。しかし、88年には日本ハムへトレードで移籍する。決断したのは監督に就任した星野だった。移籍後に2000安打を達成。2000年から3シーズンは、日本ハムで監督も務めている。

うまそうに紫煙をくゆらせていた

 筆者が取材したのは4年ほど前だった。すでに大腸がんでステージ4、余命1年と宣告された後だった。にもかかわらず、大島さんはうまそうに紫煙をくゆらせていた。こちらは驚きつつも、あるいは闘病する意欲はないのかなと思ったが、そうではなかった。取材時にも説明してくれたが、今年の春ころに書いていたという文章が、大島さんの死後に更新されたブログで紹介されていた。実にわかりやすいので引用する。

『命には必ず終わりがある。自分にもいつかその時は訪れる。その時が俺の寿命。それが俺に与えられた運命。病気に負けたんじゃない。俺の寿命を生ききったということだ。その時が来るまで、俺はいつも通りに普通に生きて、自分の人生を、命をしっかり生ききるよ』

 大島さんは負担のかかる抗がん剤治療にも前向きに取り組んだし、野球解説者としての仕事を寿命が尽きるまでやりきった。余命宣告から5年近くも『いつも通り』に生を全うしたのだ。

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