濃度・オブ・ザ・リングBACK NUMBER
「お母さんにも連絡がつかなくて…」 宮城県利府町出身の藤本つかさが震災後の試合で感じた“プロレスの役割”
text by
橋本宗洋Norihiro Hashimoto
photograph byNorihiro Hashimoto
posted2021/03/11 06:00
宮城県利府町出身の藤本つかさは、震災から10年経った今も被災地を勇気づけている
「助かった」という連絡の直後に津波に飲まれた友人も
後楽園ホール大会のメインイベントでベルトを守ったのは3月21日。震災後“聖地”初開催の興行だった。
「今日見に来てくれたお客さん、お父さんお母さん、生きていてくれてありがとう」
そう言って藤本は泣いた。就職した会社が違ったら暮らし続けていたかもしれない利府町には遺体安置所と廃棄物の処分場が作られ、愛した地元の風景も生活そのものも激変した。一度は「助かった」という連絡があったものの、その直後に津波に飲まれた友人もいた。そんな震災から10日後のタイトルマッチ。絶対に忘れられない試合だ。
「東北の人間は、昔を振り返る時の分岐点が震災なんですよ。“あれって地震の前だっけ、後だっけ”みたいに。それは私も同じです。プロレスラーとしても変わりました。それまではただただプロレスが楽しくて、自分のために試合をしてました。でも震災直後にベルトを守って、より多くの人にプロレスを届けるのが自分の役目だと思うようになりました」
娯楽が何もなくなった被災地に自分ができること
その思いをさらに強くすることになったのが、アイスリボンの『被災地キャラバン』大会だ。宮城、岩手の避難所や学校、公園でプロレスを見てもらう。選手も設備も最小限。リングではなくマットを敷いてそこで闘う。被災地でプロレスを、という発想は藤本と地元の友人の会話から出てきた。
「最初は“こういう時、プロレスラーに何ができるんだ”と自問自答ばかりしていました。人前に出る仕事よりボランティアに行ったほうがいいんじゃないか、とか。地元から離れている分、余計にもどかしいんですよね。
そういう時に地元の友だちと話したんです。その子が言うには“テレビを見ても震災関連のことばかりで息が詰まる。私はネイルサロンだって美容院だって行きたい、おしゃれもしたい。こっちには娯楽が何もなくなった”って。そういう人たちに娯楽としてプロレスを届けられたらいいなと思うようになりました」
避難所の光景を見て、藤本は「ここで本当に試合をしていいのか」と思った。それでも「いつも通りのアイスリボン」を見せる。激しさだけでなく明るさ、楽しさも重視する華やかな闘い。笑いの要素もある。(現在はコロナ禍のため行なわれていないが)エンディングで選手が客席を回り、観客一人ひとりと握手をするのも恒例だ。
「その“握手回り”でようやく感触が掴めました。“久しぶりに笑ったよ”って言ってくれる人がいれば泣いている人もいて。アイスリボン系列のネット中継番組を楽しみにしてくれているというファンの方も避難所にいました」