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日本初の女性アナウンサーが子どもをおいて年下男子と失踪、海へ……「翠川秋子心中事件」とは
text by
小池新Atarashi Koike
posted2020/10/04 11:30
日本初の女性アナウンサー・翠川秋子
「アナウンサーたちの70年」によれば、「最初はアナウンサーではなく放送係として家庭講座を担当していたが、採用試験の際、日ごろ習い覚えた琵琶をひとくさり歌って声量の豊かさを認められていたので、アナウンサーも兼ねるようになった」。琵琶は戦前あたりまでは平家琵琶や薩摩琵琶、筑前琵琶など、演奏と歌唱に人気があり、たしなむ人が多かった。「それまで男性アナウンサーが担当していた料理番組などが彼女の担当となり、たくわんの漬け方からシミ抜きの方法まで、自分で企画して放送し、人気を高めた」と同書。プロデューサーも兼ねていたということだろうか。ほかに講演の依頼なども担当した。
断髪・洋装がトレードマークだった
「“モガ”(モダンガール)の流行する前だったが、着物姿の多い時代に断髪洋装で、目の縁をくまどった姿が目を引いた」(「アナウンサーたちの70年」)。この時代、和服に合わせた長い髪を切り、洋装にする女性が出始めていた。「婦人公論」1925年4月号は「断髪婦人の感想」という特集記事を掲載。作家・吉屋信子らとともに、秋子が「母の許を乞うて」と題した文章を寄せている。
「私が断髪したのは昨年の8月……でも母に許しを受けたのです」。「私、近頃髪を結うことが何となく面倒になったから、いっそ切ってしまおうかと思うんですが、ようございますか」と母に伝え、実際にすぐ切ってしまった。「本当に経済で、気楽で、朝の時間など、ことに自由で、全く女の世界から解放されたような気持ちがするのです」「どうせ非難の多いことは覚悟していますけれど、自分の境遇のうえから、経済のために洋装を実行し続けていきたいと思っています」と宣言している。これ以降も新聞や雑誌に写真が載るが、断髪がトレードマークで、時代の先端で社会に立ち向かう新しい女性のイメージを常に打ち出していた。現在よりさらに男社会だった時代、目立つ存在の彼女には当然風当たりも強かった。
人気が高く注目されても「局内では風当たりが強かった」
同年12月20日付「日刊ラヂオ新聞」1面「アナウンサー紹介」は、似顔絵を添えて秋子を取り上げている。「ファン諸君、決して秋子女史は、鼻をつまんでアナウンスしているわけじゃありません。まして、お豆腐屋さんとぐるになって油揚げの料理ばかりを放送するわけでもありません」。同新聞は放送局の機関紙的存在で、執筆者も仲間内と思われるが、素直には笑えない感じだ。「お嬢さんと道を歩いていて、お妹さんですかと言われる若さだ。さればこそ、時々服部氏からおごらせられる因縁を時々おこしらえになる」ともある。「服部氏」とは名部長の名をはせた服部愿夫(よしお)・東京放送局初代放送部長のことだが、これが読売の続報の言う「桃色のうわさ」なのだろうか。
「しかし、翠川も1926(大正15)年1月にはアナウンサーをやめ退職した。局外では人気の高かった翠川も、その派手な振る舞いのゆえに、局内では風当たりが強かったという」と「アナウンサーたちの70年」は短く書いている。わずか約7カ月のアナウンサー生活だった。「女性受難十二章」に基づけば、いきさつは次のようだった。