Online SelectionBACK NUMBER
日本初の女性アナウンサーが子どもをおいて年下男子と失踪、海へ……「翠川秋子心中事件」とは
text by
小池新Atarashi Koike
posted2020/10/04 11:30
日本初の女性アナウンサー・翠川秋子
夫に先立たれ、母親として生きていくことを決心した
「荻野流砲術師範の家に生まれて何不自由なく育ち、柔剣道、和歌など、武士の娘として恥ずかしくないだけの芸を仕込まれ、夫・秀夫を養子として迎えて幸福な日を過ごしていた。大正11(1922)年、来年は夫も支店長(京橋貯蔵銀行支店)になるというところで夫に死別してからは、いままで足繁く家へ寄り付いていた人も来なくなり、全く世間に見放されて途方に暮れた。しかし、当時7歳、9歳、11歳になった三児の無心な姿を見て、自分の命は縮めてもこの子どもたちを立派に育てていこうと固く決心した」(8月7日付読売朝刊掲載の回顧録の「拾い書き」より)。
この事件を取り上げた澤地久枝「初代女性アナ翠川秋子の情死」(「続昭和史のおんな」所収)は「この結婚生活は、あまり幸福とはいえなかったようである」と書いている。「不本意な別れ方をした恋人があった」うえ、夫はそのことを知っていた。「夫は秋子が出産、育児に追われるようになると家庭の外に男としての歓楽を求めるようになる」。そして、夫の死後、秋子は真剣に世間の荒波に立ち向かわざるを得なくなる。
「声量の豊さが認められ」初の女性アナウンサーとして注目される
「初代女性アナウンサー翠川秋子が、坂本武雄とともに芝浦のスタジオに現れたのは1925(大正14)年6月である」「3人の子どもを残して夫が他界したため、東京放送局総裁・後藤新平の推薦で愛宕山の仕事をすることになった」。NHKアナウンサー史編集委員会編「アナウンサーたちの70年」はこう記述している。
「東京放送局」は日本放送協会(NHK)東京ラジオ第1放送の前身で、「芝浦のスタジオ」は、1925年3月に試験放送を始めてから愛宕山に移るまでの本拠。同年6月26日付東京朝日(東朝)朝刊社会面には「放送局に婦人を アナウンサーとなった翠川秋子さん」というベタ(1段)記事が載っている。
「近く愛宕山に引き移って本放送を始める東京放送局に、きのうから男ばかりの中に紅一点の女性を加えた。というのは、東京で初めての女流アナウンサーで緑川(「翠川」の誤り)秋子さんという中年の婦人。女子美術学校卒業だが、ハキハキとした性格が声にも動作にも表れて、これから『家庭講座』を担任して、流行だの料理だの、育児から家庭教育、衛生といった放送プログラムはもとより、工場に働く女工へのお話、小ラヂオファンのために折々おとぎ話もするという文字通りの八方美人だ」。着任早々の紹介記事とは、初の女性アナウンサーとして注目を集めたことが分かるが、どこか書きぶりに“毒”が感じられる。
本人は5年後の「婦人画報」1930年12月号に載った「女性受難十二章」でいきさつを述べている。
ある雑誌の編集主任をしていたが、意見の衝突から退社。新聞社にも採用の打診をしたが、「さしあたり来月のパン問題を考えなければならなかったので」「放送局の方へお願いすることになったのでした」という。「当時は仮放送時代で世間の人たちは珍しくてたまらず、まるでランプの世界に電灯が飛び出したような騒ぎ方だったのです。そこに、女の飛び入り、騒がれるのも無理はありません」「各新聞社、雑誌社の写真班が無理矢理に私をスタジオに連れて行き、初めて見るマイクロホンの前に据え込んで、強いライトでまるで包囲攻撃的に撮影したものです」。新聞に写真入りで大きく扱われた結果、通勤電車の中や愛宕山近くの商店街などで大騒ぎされたという。