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スポーツという不要で不急なものを、
人はなぜこんなに求めてしまうのか。 

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藤島大

藤島大Dai Fujishima

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photograph byNaoya Sanuki

posted2020/03/06 19:00

スポーツという不要で不急なものを、人はなぜこんなに求めてしまうのか。<Number Web> photograph by Naoya Sanuki

日本中が熱狂したラグビーW杯。各スポーツ団体は新型コロナウイルスの対策で試合の延期、中止、無観客開催など、対応に追われる日々が続く。

戦後初のスポーツ競技に3000人。

 戦前の早稲田大学ラグビー部監督の本領信治郎は敗戦から4年の著書において、1938(昭和13)年を次のように回顧した。

「満州事変以来慢性的になっていた軍国調のきざしは、スポーツを軍国主義的な国民訓練と結びつけながらも、直接の抑圧感は生じていなかった」(『日本ラグビー物語』)

 あとで思えば、ここで、大きな声の異を広く唱えるべきだった。きざしはきざしで終わらない。その3年後、1941年の「太平洋戦争に入る直前から」いきなり「まざまざとした弾圧」はあらわとなる。そうなると、もう抗えない。

 1945年8月15日、敗戦は国民に伝えられた。同年9月23日、東京大学と早稲田大学のOBふたりが奔走、ラグビーの試合を早くも実現させる。京都の旧制三高を母体とするチームと各大学卒業生による関西ラグビー倶楽部の対戦。これが戦後初めての競技スポーツの試合とされる。京都大学農学部のグラウンドには告知なしに「3000人」の観客が集まった。

人々は非日常のスポーツを求めていた。

 その場にいた新聞社勤務の人物が書き残している。

「自由と平和が来たという喜びが雪どけの水のように奔流したようであった」(『東京大学ラグビー部七十年史』)

 人々は非日常のスポーツを心の底で求めていた。食糧確保や職場の再建が日常なら、非日常、余暇の活動であるラグビーもまた欠かせなかったのである。

 未知であったウイルスの行方はまだ知れない。五輪は、パラリンピックは、さらにはトップ級競技者に限らぬ万人のスポーツの機会は。楽観も悲観も禁物だろう。ただ不要不急がひとまず退けられて、ありがたさも身に染みる。

 あらためて思う。スポーツ界は、自然災害や感染リスクの重大局面を除いては、みずから自由を手放してはならない。簡単に記せば「戦争をするからスポーツをするな」という圧力に屈しない。それは過去の教えでもある。

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