才色健美な挑戦者たちBACK NUMBER
五輪マラソン日本代表を目指し続けた
千葉真子が振り返る競技人生。
text by
林田順子Junko Hayashida
photograph byYuki Suenaga
posted2020/03/11 11:00
トントン拍子でアトランタ五輪へ。
旭化成の練習が合っていたことも大きかったですね。一度質の高い練習をしたら2日間はジョギングをして、また質の高い練習をする。メリハリのあるトレーニングのおかげで記録はぐんぐん伸びていきました。
宗さんも自分たちがやってきたことや、ノウハウを包み隠さず伝授してくださって。練習でこのぐらい走れたら、試合ではこうなるだろうとか、言われたこともピタッと当たる。カリスマ性もありましたし、トントン拍子に結果が出て、自分には縁がないと思っていたアトランタ五輪に1万mで出場することができました。
翌年の世界陸上では銅メダルも獲得しましたが、一方でマラソンをやりたいという思いはどんどん強くなっていきました。たまたまメダルを取れましたけど、1万mの世界を見たら、日本人はやっぱりスピードが足りない。マラソンも今後スピード化をしていくことは予想できましたが、種目を移行した方が世界で戦えるんじゃないかと考えたんです。
ところがマラソンとなると40km走など、練習が格段に増えてくる。結局、怪我が続いて、マラソンを目指すと言ってから、実際にスタートラインに立つまでに2年かかりました。ところが、ようやくマラソンを走れると思ったのも束の間。すぐにまた怪我をして、予定していた試合は全部キャンセル。結局、初マラソンの翌年に旭化成を退社しました。
メダリストと一緒に練習がしたい。
この頃は光が見えず、本当に辛い日々でした。でもアトランタ五輪で5位だったこと、世界の舞台で戦えたことがひとつの自信になっていた。5位になれたのだから、次こそマラソンでメダルを取りたい。その夢があったからこそ、そして自分がその夢に到達できると信じていたことが前に進む原動力となりました。弱かった高校生時代の自分が、小さな成功体験を積み重ねて世界にいけた。その経験があったからこそ、そんなふうに思えたのかもしれません。
私が出場を逃した2000年のシドニー五輪では高橋尚子さんが金メダルを取られて。次の五輪で私がメダルをとるためには、世界のメダリストと一緒に練習したいって単純ですが思ったんです。金メダリストの高橋さんと、銀メダリストのリディア・シモンさん。どちらの元で学ぼうかと悩み、最終的には小出義雄監督にお世話になることにしました。
ところが高橋さんって体が丈夫で、ものすごい練習量でもしっかりこなせる鉄人だったんです。対して、私は大きな怪我はしなかったものの、小さな故障や体調不良で同じ練習量がこなせない。焦りもありましたが、まずはやってみようと黙々と高橋さんと同じ練習メニューを続けたのですが、やればやるほど、走れなくなってくるんですよ。2年ぐらいしてやっとこのままじゃダメだと思い、意を決して、監督に「このままの練習だとオーバーワークで結果が出る気がしません。1日2回のメニューを1回にしてもらえませんか」と訴えました。名伯楽にただの若者が意見を言うなんて、普通はタブーですよ。でも監督は「よし、わかった」と一言だけ言ってくださいました。