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高校野球で壊れた選手が絞り出した、
「楽しめたのは、高校1年が最後」。 

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氏原英明

氏原英明Hideaki Ujihara

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photograph byKyodo News

posted2019/06/22 08:00

高校野球で壊れた選手が絞り出した、「楽しめたのは、高校1年が最後」。<Number Web> photograph by Kyodo News

2013年の甲子園に、木更津総合で出場した千葉貴央。彼は今も、黙々とリハビリを続けている。

千葉の投球を止めることはできなかったのか。

 高校球児が登板回避を言い出せず、指導者が「本人が望んだから」と送り出す構図は、100年を超える高校野球の歴史の中でほとんど変わっていない。球児はどんな苦境に陥ってもマウンドに立つことを望むし、指導者もそれを止めることはしない。

「エースで負けたら仕方がない」という空気が充満していて、玉砕を覚悟で燃え尽きるまで投げ続ける。誰の目にも故障が明らかな球しか投げられない、あの時の千葉のような姿にでもならない限り、エースナンバーを背負ったものはマウンドを降りることはできないのだ。

 しかし、あの時大人にできることは本当になかったのだろうか。

 たとえば、大会を主催する日本校高校野球連盟が千葉の投球を止めることだ。

 周知のように、日本高野連は甲子園の大会前には必ず、出場投手の肩肘検診を実施している。

 これは'91年の夏の甲子園で、準優勝した沖縄水産の大野倫投手が疲労骨折していたことが大会後に報道され、それを問題視した当時の日本高野連が同じ過ちを繰り返さないために導入した施策だ。

 しかし、高校球児を守るために導入されたはいいものの、検診が正しく機能しているのか疑わざるをえないケースが散見される。

 千葉のケースでは、検診で「疲労が溜まっているみたいだけど、大丈夫?」というニュアンスのことは尋ねられたものの、投球禁止を通達されることはなかった。

 県大会の準決勝と決勝戦で連投した千葉は、甲子園開始前の時点で身体は限界を超えていて「顔も洗えないほどだった」と激痛の様子を語っている。痛み止めの注射や興奮剤のようなもので処置して1回戦を投げきったが、2回戦で力尽きた。

試合後に炎症を監督が告白したケースも。

 千葉だけではない。

 2014年の大会では、盛岡大附のエース・松本裕樹(ソフトバンク)がケガを押して甲子園で2試合に先発している。松本は岩手県大会の決勝戦中に右肘に痛みが走り、そのまま甲子園出場を果たした。

 地元での診断は右肘靭帯の炎症だったが、それでも日本高野連から登板禁止の通達を受けることはなかった。

 初戦の東海大相模戦では8安打を浴びながらも要所を締めて、3失点で完投勝利を挙げた。だがこの試合、150キロを投げると評判だった松本の球速は130キロ程度だった。3回戦の敦賀気比戦では、3回途中9失点で降板している。

 この試合後、肘に炎症があることを盛岡大附の指揮官・関口清治が告白した。松本は甲子園のあとからプロに入るまでノースローだったというから、けがの深刻さがうかがい知れるというものだ。

【次ページ】 事務局長が検診について答えたこと。

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#千葉貴央

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