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トライアスロン・谷真海が
パラスポーツに抱く熱き思い。

posted2019/06/05 11:00

 
トライアスロン・谷真海がパラスポーツに抱く熱き思い。<Number Web> photograph by Shigeki Yamamoto

text by

林田順子

林田順子Junko Hayashida

PROFILE

photograph by

Shigeki Yamamoto

  2020年を目前に控え、パラアスリートへの注目も高まってきている。五輪招致活動のプレゼンターとしてスピーチを行なった、パラトライアスロンの谷真海もそのひとりだ。

  大学在学中に骨肉腫を発症した谷は、右足の膝より下を切断するも、走り幅跳び競技でアテネ、北京、ロンドンと3回のパラリンピックに出場。その後、第1子出産を機にトライアスロンに転向し、2020年の東京大会出場を狙う。

  2016年のリオ大会より正式競技として採用されたパラトライアスロンは、車椅子、切断、視覚障害など、障害の種類と程度でカテゴリーが分けられ、スイム750m、バイク20km、ラン5kmを争う。2020年大会で初めて観戦するという人も多いであろうパラスポーツの魅力を自身の経験とともに語ってもらった。

 骨肉腫が発症して、入院してからの10カ月間はものすごく長かったですね。抗がん剤を大量に投与して、手術もして、副作用で髪の毛も全部なくなったり、日々治療、治療のなかで、未来はあるのかなとか色々なことを考えましたし、ふとしたときに落ち込んでしまいそうになる日々でした。母に言われた「乗り越えられない試練は与えられないんだよ」という言葉を日々、自分に言い聞かせながら、20代は常に不安の中で競技や仕事に打ち込んでいました。そうやって毎日を過ごすうちに、徐々に光が見えてくるというのを感じて、なんとなく自分の進む道を信じることができるようになったのです。もともと前向きだったわけでも、気持ちの切り替えがうまかったわけでもなく、自分の人生がそう仕向けてきたんですよね。

 退院して2カ月ぐらい経って、リハビリの一環として取りかかったのが水泳でした。さらにその1カ月後ぐらいには走り始めていましたね。

 もともとスポーツは好きでしたが、自分らしさを保つために何か目指すものが必要で、一番自分らしくいられるものと考えたときにたどり着いたのがスポーツだったんです。体を動かさないと、どうしても気持ちも晴れなくて落ち込む一方で。この先の人生どうしようかなという悩みの中で、スポーツが支えになってくれました。強く心の底から湧き出るエネルギーが、弱い自分をプッシュして、前に向けてくれたんです。

出産を経てトライアスロンに挑戦。

 走り幅跳びを選んだのは、義足になって、ヨーイドン! と誰かと競うよりは、自分と戦いながら、記録を1cmでも伸ばしていくというのが、その時の自分とすごくフィットしたからです。少しでも成長をしていこうという気持ちで競技を続けていましたが、跳躍系の種目は40歳、50歳になっても続けるというのは難しい。どこかで区切りをつけることが必要だと思っていました。

 招致活動をしていた2013年に自分の競技人生の中でもピークと思える良い記録が出て、自分でもひとつ納得ができたんですね。翌年に結婚し、その翌年に出産を経験したことで、切り替えるにはいいタイミングかなと思えた。最初は第一線に戻ることは決めていなくて、筋力や体力を維持していくために、ゆったり走ったり、泳いだりしながら、育児が落ち着いてきたらトライアスロンをできたらいいなという気持ちだったんです。

 でも水泳も陸上も昔からやっていたというのが大きくて、結局はパラリンピックを目指すまでになりました。私のカテゴリーはトライアスロンとしては一番距離が短くて、スピードやスプリント力が求められる種目です。ゴールまで1時間15分ぐらいで終わるため、心拍数はかなり高いレベルで追い込みます。正直、トライアスロンをやろうと思った時はもっと長い距離を淡々と自分のペースでやろうと思っていました。ここまでハードに追い込む種目だとは予想外でしたね(笑)。

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