Jをめぐる冒険BACK NUMBER
朝の情報番組でマニアックな戦術論。
「みんなのレノファ」の志が熱い。
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byAtsushi Iio
posted2019/05/31 11:00
「みんなのレノファ」を支える十川プロデューサー(左)と楢崎アナ。朝の情報番組と思えぬ濃度で、レノファ山口を熱く深く扱っている。
朝の生番組に取り込まれたのが転機。
試行錯誤を続ける「みんレノ」が現在のスタイルにたどり着くのは昨年、'18年4月のことである。
土曜朝の情報生番組、「どき生てれび」の放送枠拡大にあたって、「みんレノ」が取り込まれ、番組のいちコーナーとして生まれ変わったのだ。
「これは本当に大きな転機でしたね」
単一番組から情報番組内のコーナーになったのだから、格下げの印象は拭えない。それなのに、なぜ、大きな転機だったのか。
「90分番組のいちコーナーになるっていうことは、20分やっても30分やってもいいってことなんです。それこそJ1に昇格したら90分まるまるやってもいい。だから、『時間はあるから、今までできなかった企画をやっていこう。どんなことをやりたい?』って十川(そがわ)さんに聞かれて――」
翌日の早朝、「どき生てれび」を放送中のyabのスタジオを訪ねると、オレンジのジャージー姿で番組を見守る人物がいた。
この人こそ、「みんレノ」の生みの親、プロデューサーの十川賢次である。
十川Pは大のサッカーフリーク。
レノファ山口のチームカラーも、yabの社色もオレンジだから、どちらかのジャージーを着ているものだと思っていたら、オランダ代表のジャージーだった。
「これ、いいでしょ」と笑う十川は、楢崎とは違って大のサッカーフリークだ。
1979年のワールドユース日本大会でディエゴ・マラドーナに魅せられてサッカーを始め、小学校の卒業文集には「将来ヤンマーディーゼルに入りたい」と書いた。もちろん、釜本邦茂に憧れていたからだ。
中学、高校時代には、日本代表の試合やJSL(日本サッカーリーグ)を観るために国立競技場や西が丘サッカー場まで足を運んだ。京都の西京極で大阪商業大の試合を観たことも良い思い出となっている。
「小林伸二さんがウイングとして活躍していて。僕もウイングだったので憧れていました。まさか一緒に仕事をさせてもらうことになるとは、思いもしなかったですけど」
そんな十川の原点は、アメリカで過ごした20代にある。大学スポーツが盛んなアメリカでは、キャンパス内に収容数万人規模のスタジアムがあり、試合ごとに観客でいっぱいになる。その様子が、十川の脳裏にこびりついている。
「アメリカのどの街も、スポーツ文化で成り立っているんです。それに魅了されて、チームに同行して研究したりもして。それで、日本にもスポーツが文化として根付かないかな、それに関わる仕事がしたいな、と思うようになったんです」