フランス・フットボール通信BACK NUMBER
超長期計画で育ったウルグアイ代表。
“独裁者”タバレス監督とは何者か?
posted2018/07/05 11:00
text by
トマス・グバンThomas Goubin
photograph by
Mark Baker/AP/SIPA
ウルグアイが欧州チャンピオンのポルトガルを破り、ワールドカップ・ベスト8に進出した。
過去2回の優勝を誇りながらしばらく前までウルグアイは、“古豪”という敬称がすっかり板についた存在だった。最後にベスト4に入ったのが1970年で、それ以降は目だった活躍がなかったからだ。
ところが2010年の南アフリカワールドカップで、ウルグアイは40年ぶりの準決勝進出を果たした。ディエゴ・フォルラン、エディンソン・カバーニ、ルイス・スアレスの3人のストライカーは強烈な印象を残し、後にセレッソ大阪に移籍するフォルランは、トーマス・ミュラーやダビド・ビジャ、ウェスレイ・スナイデルとともに大会得点王を獲得した。
古豪復活の狼煙をあげる立役者となったのが、2006年に2度目の代表監督に就任したオスカル・タバレスだった。今大会でも彼は、その年齢(71歳)と就任期間の長さで、ワールドカップ出場全監督の中で群を抜いている。
タバレスがもたらしたウルグアイサッカーの革命とは何だったのか。準々決勝のフランス対ウルグアイ戦を前に、『フランス・フットボール』誌6月26日発売号でトマ・グバン記者がその内実に迫る。
監修:田村修一
人口350万人の小国でのサッカー強化策とは?
ターニングポイントは2002年まで遡る。ボカ・ジュニアーズの監督を解任された当時55歳のオスカル・タバレスは、舞い込むオファーのすべてを断り自らのオフィスに籠って「監督」という仕事とその方法論の考察を深めていた。
その分析の結果は、『代表チームと選手育成のプロセスについての制度化プロジェクト』という名の野心に溢れたレポートとなって、2006年冬にウルグアイ・サッカー協会(AUF)に提出された。
すでに1988~90年にウルグアイ代表監督を経験('90年イタリアワールドカップでベスト16進出)していたタバレスにはひとつの確信があった。
それは350万人の人口しかないウルグアイでは、活用できるタレントの数が限られており、誰ひとりとして無駄にしてはならないというものだった。彼が提唱したのはU-15からA代表までの方向性の一貫した強化だった。