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侍ジャパンに漂う“違和感”の正体。
プロ選手がアマ精神で戦うねじれ。 

text by

堀井憲一郎

堀井憲一郎Kenichiro Horii

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photograph byNaoya Sanuki

posted2016/11/23 07:00

侍ジャパンに漂う“違和感”の正体。プロ選手がアマ精神で戦うねじれ。<Number Web> photograph by Naoya Sanuki

プロ野球選手の独特の風貌は、今でも時々話題にあがる。高校野球の独特さとは真逆の意味で、こちらもやはり独特なものだ。

50年以上のプロアマ断絶の淀みは、今も残っている。

 チームに企業名を冠して、試合興行をおこなうことを譲らないのも、ここに要因がある。

 プロの強引なアマ選手引き抜きから両者は決定的に対立し、野球界はプロとアマが長いあいだ、完全に断絶していた。50年以上の永きにわたる断絶というのは、お互いの存在を絶対に認めない、という宣言である(とくに上位者のアマ側の感情である)。断絶を越えて、お互いに行き来するようになったのは、ここ数年にすぎない。まだふつうの関係になっているとは、とても言えない。

 その空気はプロ野球界全体の底に淀んでいる。

野球は実はとても土着的で、土俗的なスポーツだ。

 野球界においては、プロとアマとは、まったく別の人種でなければいけなかった。より低位にあったプロ側が、威圧的な身体性を誇示して、アマと違うという空気を身にまとわなければならない。プロ野球選手は“反アマチュア野球”を強く体現しなければいけなかったのだ。どうしても威圧的で、恫喝的になる。興行もの独特のくすんだ感じも、身にまとうことになる。

 サッカー選手には、そういうしがらみはない。アマ時代のスタイルで、プロを続ければいい。また、サッカーでは、所属するクラブチームの先に、ナショナルチームがあり、ワールドカップ出場が大きな目標になっている。ナショナルチームで活躍することは、プロ人生において大きな意味を持つ。ワールドカップでの活躍は、より高い次元への招集へとつながる。それが世界的了解事項である。

 野球世界はそんなふうにつくられていない。おそらくこれからも、そうはならない。

 19世紀半ばにアメリカで生まれ、アメリカに限定して広がったベースボールは、その周辺国に波及はしたが、非常にドメスティックなスポーツである。日本から見れば、アメリカ文化だから、ハイカラで西洋的で近代的なものに見えるが、日本でも独自の土俗性を獲得したように、実はとても土着的で、土俗的で、その土地に育たないと楽しめないスポーツなのだ。ベースボールそのものに世界に広がろうという意思はなく、アメリカに集約しようという思念しか宿していない。

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