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侍ジャパンに漂う“違和感”の正体。
プロ選手がアマ精神で戦うねじれ。 

text by

堀井憲一郎

堀井憲一郎Kenichiro Horii

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photograph byNaoya Sanuki

posted2016/11/23 07:00

侍ジャパンに漂う“違和感”の正体。プロ選手がアマ精神で戦うねじれ。<Number Web> photograph by Naoya Sanuki

プロ野球選手の独特の風貌は、今でも時々話題にあがる。高校野球の独特さとは真逆の意味で、こちらもやはり独特なものだ。

選手を知っていないと、野球は面白くない。

 野球はテンポの悪い競技である。この間合いと中断が興行向きなのだが、WBCではそこも問題がある。

 これは、プロ野球は同じメンバーで繰り返し対戦する、からである。藤浪と坂本は何度も対決するし、大谷は幾度も投げ、何度も打席に立つ。過去の物語を観客が持っているから、楽しめる。野球のスポーツとしての退屈さは、記憶によって乗り越えられている。

 ただ、世界大会では、対戦相手の選手を、ほぼ、知らない。日本選手の記憶だけでは時間は埋まらない。ひたすら日本を応援するしかない。自チームだけを応援するスポーツとしては、タイムロスが多すぎる。とても疲れる。まして両チームとも知らなければなお面白くない。2013年のWBCの決勝のテレビ放送は、日本が敗退したので中止になった。

 高校野球も人気があるが、こちらは、記憶による人気ではない。

 テンポがよくスピーディだから、広く見られている。無駄を削ぎ落とした試合は、見知らぬ選手の対決を退屈せずに見せてくれる。世界大会もこれくらい早く進めば見ていられるのだが、世界のプロは、そんな展開を見せてくれないだろう。

アマとプロで、野球選手の雰囲気はまったく違う。

 また、高校野球選手とプロ野球選手がまとう雰囲気はまったく違う。

 高校サッカーの選手とプロサッカー選手にはさほどの距離を感じないのに比べ、野球選手のプロとアマは、雰囲気がまったく違う。アマチュア相撲の選手と、プロの大相撲力士のように違う。

 プロ野球は興行である。つまり見世物だ。大勢の客に見せるために試合は行われる。年間試合数も140試合以上と、とても多い。

 選手に求められるのは、野球がうまいことのほかに、連続して出場しつづける持続的な体力である。基礎体力の強い選手だけが名選手となれる。見世物として働くプロは、わたしはアマチュアの選手ではない、と誇示しつづける必要がある。

 歴史的な背景もある。

 日本の野球はアマチュア野球から始まった。プロ野球が発足するまでにアマチュア野球が人気となり、とくに東京六大学野球が日本の野球人気の中心にあった。1936年に職業野球連盟が結成されたあとも、人気は圧倒的に六大学野球にあり、プロの人気が六大学と並ぶのは、やっと長嶋茂雄の登場からである。

 いつも、プロ野球側にはアマチュア野球に対する強い劣等感があり、アマ側からすればプロに対する不思議な蔑視があった。

 この構造が、すべてである。

“アマのプロ蔑視”という視点が日本の野球界の底流に流れ続け、いろんな空気を決めてしまっている。

【次ページ】 50年以上のプロアマ断絶の淀みは、今も残っている。

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