甲子園の風BACK NUMBER
野球応援のド定番「コンバットマーチ」。
その生みの親と初センバツの小豆島高。
text by
梅津有希子Yukiko Umetsu
photograph byYukiko Umetsu
posted2016/03/19 08:00
三木佑二郎氏の「コンバットマーチ」の楽譜。「1965.10.16」の記入がある。
芸大目指すも、「チューニング」の意味がわからず……。
小豆島の土庄町出身の三木氏は、中高時代吹奏楽部に所属。トランペットを担当し、地元では「うまい」と評判の音楽青年だった。
高2の時に東京芸大を目指し、受験前に東京で行われた研修に参加した際、人生初の挫折を味わうこととなる。
「参加者がトランペットだけで20人ほどいたんですけど、みんなものすごくうまいんです。吹奏楽コンクールの全国大会に出ているような人たちばかりで、めちゃくちゃうまい。かたや自分は、地元ではうまいうまいといわれていたけれど、先生から『チューニング(楽器の音程を合わせること)をします』といわれても、チューニングの意味すらわからない。そんな言葉自体、聞いたこともありませんでした。でもみんな当然のようにチューニングを始めるもので、もう恥ずかしくて恥ずかしくて……。
楽器も、自分が持って行ったのは『ニッカン』(日本管楽器=ヤマハの前身)ので、他の人のトランペットは『バック』や『セルマー』など、海外の一流メーカーばかり。周りがみな、『この田舎者が』という目で、私を見て笑っていました。1週間の研修でお金も支払い済みでしたが、とても耐え切れず、3日目に小豆島に帰りました」
地方の吹奏楽部出身で、一時期音大に憧れたこともある筆者としては、聞いているだけで胸が痛くなった。あまりにも切なすぎるエピソードで、若かりし日の三木氏を想像して、思わず涙ぐんでしまった。
「地元ではトップクラスの実力だったのに、音大に入ったら周りがうますぎて打ちひしがれた」という同じような話は、今でもよく聞く。
芸大をあきらめ、早稲田大学へ。
高校時代、早慶戦が好きだった三木氏は、テレビ中継を夢中になって見ていたという。芸大はあきらめたものの、歌も好きだったので、テレビでよく見ていた早稲田大を受験することを決意。名門のグリークラブを目指すことにしたのだ。
「無事早稲田に合格し、憧れのグリークラブに入りましたが、先輩と喧嘩して3カ月で辞めました(笑)。昔から早慶戦をよく見ていて野球も好きだったので、応援部の吹奏楽団に入ることにしたのです」