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現役復帰を決意した萩原智子が
“空白の5年間”で得たもの。 

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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photograph byJun Tsukida/AFLO SPORT

posted2009/06/21 06:00

現役復帰を決意した萩原智子が“空白の5年間”で得たもの。<Number Web> photograph by Jun Tsukida/AFLO SPORT

山梨学院の職員として復帰したハギトモ。復帰戦で次の日本選手権出場を決めたので、さらに代表入りを狙う

 会見の場に姿を見せると、笑顔で、久しぶりの大会の感想を口にした。

「楽しかった、というよりも、面白かったです」

 その笑顔は、かつてとは対照的だった。

 6月14日、日本実業団大会山梨県予選会が行なわれた緑が丘スポーツ公園内の水泳場は、異様な熱気に包まれた。150を超えるレースに小学生から大人までが参加する大会。選手や応援に来る友人や親族の人数がすさまじいのは例年のことだ。違ったのは、取材陣の数だった。25mプールのサイドには、ずらりと記者やカメラマンが並んだ。

 お目当ては、萩原智子だった。

 2004年、アテネ五輪の代表選考会を兼ねた日本選手権で代表に入れずに終わると現役を引退。選手として泳ぐのは、5年ぶりであった。

5年ぶりに封印を解いた、日本競泳史上屈指の才能。

 5年ぶりであることばかりが、これだけの取材陣の数につながったのではない。選手時の残像が今なお強く残るほど、印象的であったからだ。

 180cm近い長身、恵まれた体格の萩原は、自由形、背泳ぎ、バタフライ、そして200m個人メドレーと、多種目で日本のトップクラスの実力を持っていた。象徴が2002年の日本選手権である。自由形の100と200m、200m背泳ぎ、200m個人メドレーで優勝したのだ。個人4冠は史上初であった。

 しかも国内にとどまる実力ではなかった。背泳ぎと個人メドレーでは世界のトップクラスに位置し、自由形も、国際大会で入賞レベルにあった。

「もしかすると、日本の競泳史上でも屈指の才能かもしれませんね」

 ある解説者がつぶやいたのを覚えている。

五輪の重圧に負けた萩原は一度現役を引退した。

 一方で、オリンピックでは思うような結果を残せなかった。2000年のシドニー五輪には、200m個人メドレーと200m背泳ぎで出場。ともに表彰台の圏内にいたが、個人メドレーは8位、背泳ぎは4位に終わっている。

 原因はいろいろあっただろう。一つ言えるのは、周囲の期待や注目だった。オリンピックが近づくにつれ、本来の明るさは消え、人に見られたくないかのような雰囲気を醸し出すようになっていったのを覚えている。

 プレッシャーと言いかえられるかもしれない。それは本大会での泳ぎにも影響をおよぼした。

 続くアテネには出場できず、引退を決めた。その後、水泳教室などで普及活動に打ち込む一方、取材する立場として活動を行なってきた。

「もう戻るはずがない」

 そう思っていたと言う。

【次ページ】 「また戦いたい」。萩原を奮い立たせた北京五輪。

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