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『ふたつの東京五輪』 第9回 「海外のスター選手たち」
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byPHOTO KISHIMOTO
posted2009/09/10 11:30
日本国中の視線を釘付けにした体操女子の二人。
日本だけでなく世界の観客を魅了したベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア/当時)の演技は、柔らかな動きの中に優雅さを醸し出していた
こうしたスーパースターたちの活躍の中で、もっとも注目を集めたといってよいのは、体操女子、チェコスロバキア(当時)のベラ・チャスラフスカ選手ではなかったでしょうか。
平均台、跳馬、個人総合で金メダルを獲ったほか、団体でも銀メダルを手にしました。
その活躍もさることながら、大会のヒロインといってよいほどの人気を集めたのは、彼女の容姿、柔和な雰囲気も大きかったことでしょう。
チャスラフスカ選手のライバル的な存在だったのが、ソ連(当時)のラリサ・ラチニナ選手です。ラチニナ選手は、東京五輪の前までに金メダルを7個獲得しており、東京でも2個の金メダルを手にしています。本来の実力でいえば、ラチニナ選手こそ大スターであるのですが、東京五輪では彼女はチャスラフスカ選手の引き立て役となってしまいました。
2人の演技は対照的でした。チャスラフスカ選手が優雅で美しい演技であるのに対し、ラチニナ選手のそれは、リズムがよく技の切れも素晴らしいものがありました。それでもやはり、チャスラフスカ選手の容姿も含めた優雅さに、誰もが惹かれたのです。
政治の犠牲になったチャスラフスカ選手の悲劇。
実は私は、1968年のメキシコ五輪を前にした頃、プラハまでチャスラフスカ選手の撮影に行ったことがあります。その頃の世界は西側諸国と東側諸国の冷戦体制にありました。東側であるチェコスロバキアに入国することについて、日本大使館からは「あなたが消えたとしても責任は持ちませんよ」と警告までされていました。それでもあえて撮影に行ったのです。私もまた、それだけチャスラフスカ選手に挽きつけられていたのでしょう(笑)。
その撮影から2、3カ月後、ソ連がプラハに侵攻します。民主化運動の進むチェコスロバキアを抑えるためでした。
チャスラフスカ選手は民主化運動を支持していました。競技生活を通じて、外の世界を知っていたことが大きかったと思います。そのため、ソ連に抑え込まれた状態にある祖国で彼女は常に険しい状況の中で生きていくことになりました。1989年、民主化されるとともに、彼女の名誉も回復されましたが、病を得たチャスラフスカ選手は今日に至るまで入院生活を送っているそうです。
華々しい活躍をしたチャスラフスカ選手ですが、政治の犠牲になった気の毒な選手でもあったのです。
五輪は国家の威信をかけた「代理戦争」のままでいいのか?
ホッケー決勝はインドとパキスタンの対戦となり、1-0でインドが勝利した。
政治に関連して言えば、東京五輪のホッケー決勝でインドとパキスタンが対戦しました。
両国は昔から対立関係にあり、東京五輪の翌年には戦争を始めるほどでした。緊張状態にあった両国の対戦は、お互いにひくことのできない、代理戦争の様相を呈していたのも記憶しています。
今も昔もスポーツは政治などの現実からは逃れられません。ただ、私は思うのです。例えば、レスリングでは、試合前に対戦相手と握手しなければならないように、お互いの顔を見て接することは、大きな意味があるのではないかと。戦場で向かいあったときに、「あ、あいつはあのときのオリンピックに出ていた選手だ」と気づいたら、撃てないのではないか。そんな人間臭さがスポーツを通じて築かれるのではないか。
これは私一人のロマンかもしれませんが、今も心からそう思っています。
岸本 健きしもと けん
1938年北海道生まれ。'57年からカメラマンとしての活動を始める。'65年株式会社フォート・キシモト設立。東京五輪から北京五輪まで全23大会を取材し、世界最大の五輪写真ライブラリを蔵する。サッカーW杯でも'70年メキシコ大会から'06年ドイツ大会まで10大会連続取材。国際オリンピック委員会、日本オリンピック委員会、日本陸上競技連盟、日本水泳連盟などの公式記録写真も担当。
【フォート・キシモト公式サイト】 http://www.kishimoto.com/