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宮里藍 すべてを変えたあの日。
text by
城島充Mitsuru Jojima
posted2005/08/04 00:00
リーディングボードを見たのは、16番ホール第3打のアプローチの前だった。
2日目まで首位を譲らなかった山口裕子とともに、自分の名前がトップに並んでいるのを知って宮里藍は驚いた。
《今日もショットの調子がよくない。このスコアならトップテン内、8位か9位ぐらいだろう》と思っていたからだ。
そのことは意識しないでアドレスにはいったつもりだった。
ピンは2段グリーンの奥、右寄りに切られていた。
《微妙なアプローチになるけど、どうしてもパーをとらないと……》
そう思った瞬間だった。手に汗がにじむようなプレッシャーを初めて感じたのは。
2003年9月28日、第31回ミヤギテレビ杯ダンロップ女子トーナメントは最終日を迎えた。アマチュアでたった一人予選を通過した地元・東北高校3年の宮里は4アンダー、1打差の2位と好位置につけていた。
故郷の沖縄を離れ、宮城を第2の故郷に選んだ18歳が勝てば、30年ぶりのアマチュア優勝になる。
歴史的瞬間を見届けようと利府ゴルフ倶楽部には早朝から多くのギャラリーや報道陣がつめかけたが、154cmの小さな背中には女子プロゴルフ界の未来も託されていた。
『アマチュア選手がプロツアーで優勝した場合、4週間以内に非会員登録をすれば一年間の出場資格を取得できる』
日本女子プロゴルフ協会(LPGA)がそんな特別規定を新たに設けたのは、この年の2月だった。
アマにチャンスを、プロには刺激を。女子プロ人気の低迷に頭を悩ませていた関係者の意識の中には当然、「宮里3兄妹」の末っ子として注目を集めた少女の存在があった。
もし、宮里がこのミヤギテレビ杯で優勝し、特別規定を利用してプロ宣言すれば史上初の「女子高生プロゴルファー」が誕生することになる。
まさにシナリオ通りの物語ができあがるのだが、彼女自身はまったくそのことを考えていなかった。
この規定ができた時も、まるで他人事のように聞き流した。他にも優秀なアマチュアゴルファーはたくさんいたし、この当時、自分のゴルフにまったく自信を持てなかったからだ。実際、アジア大会優勝など華やかなキャリアの一方、ここ一番という場面で勝負弱さを露呈したことも少なくなかった。
中学3年の時から出場している日本女子アマでは'01年の準々決勝で横峯さくらに、'02年の準決勝で諸見里しのぶに敗れ、その度にロッカールームで泣いた。
話題性が先行している感もあったゴルフ界のアイドルが生まれ変わったように勝ち続けるのは、高校生活最後の年となったこの'03年のシーズンからだった。
6月、念願の日本女子アマを制したことが大きなきっかけになった。8月の日本ジュニアでも優勝すると、かすかな自信が芽生えた。
アプローチとバンカーショットの技術的な進歩を評価する声もあったが、何より自覚できたのは、心のあり様の変化だった。
ライバルに勝つことばかりを考えていた彼女は、その壁を突き破ったことで自分と向き合う作業に集中できるようになった。もっとうまくなろう、強くなろう。そう願えば願うほど、自らの内面に課題があることに気づく。
一つのことをプラスに考えるか、マイナスに考えるか。その発想の違いだけでスコアが動くことも知った。
日本ジュニア優勝から1週間後のプロトーナメント「ヨネックスレディース」では過去最高の2位タイに食い込んだ。優勝した古閑美保とは2打差だった。
《すぐに詰められる差じゃないけど、決して手の届かない差でもない》
プロとの微妙な距離感を肌で感じたが、それでも、いや、だからこそ、卒業後の未来図に『プロ転向』の絵は描けなかった。アメリカへの留学がもっとも現実的な選択だった。この日、ツアー初優勝を狙える位置で最終日を迎えても、それは変わらなかった。
狙い通りのショットが打てなくても2位につけたことを《普通だと10アンダーとか9アンダーでトップを争う大会なのに、私の調子の悪さにプロがあわせてくれているみたい。運だけはあるな》と思っていた。
ラウンド直前のインタビューでも「勉強する気持ちで、あまり緊張せずに楽しくやりたい」と答えた。アマチュアとしてプロの胸を借りる気楽さがあるから、周囲の騒ぎもプレッシャーにはならなかった。
ハウスキャディとして彼女についた利府ゴルフ倶楽部の犬飼恵子は、隣にいる18歳の落ち着きに驚いていた。
「こんな時に平常心でいられるから、高校生なのにこういう舞台にあがれるんだと感心しました。足をひっぱっちゃいけないと、こちらの方が緊張していました」
この日が特別な一日になるかもしれない。そんな予感や興奮とも無縁のまま、宮里はコースに出た。相変わらずショットは不調だったが、パッティングでカバーし、冷静にスコアをまとめていった。
それなのになぜ……。
16番ホールで突然襲ってきたプレッシャーの正体はなにか、彼女にはわからなかった。
経験したことのない重圧。「ミスショット」のはずが……。
18番ホールの奥に設けられた宮城テレビの放送センターは、4656人と発表された鈴なりのギャラリーに囲まれていた。
宮里は前の組で回る片山真里、最終組の山口と同じ4アンダーで激しい首位争いを演じたまま、この最終ホールを迎えた。
第17回大会から中継を担当してきた宮城テレビのプロデューサー、柴森則夫はギャラリーの注目を一身に浴びる高校生の姿を特別な感慨で見つめていた。
テレビの業界で女子プロゴルフの中継は「お荷物」扱いされて久しかった。ここ数年の視聴率は2%から良くても4%台。柴森自身、キー局との打ち合わせで苦い思いを味わうことも少なくなかった。
あと数十分もすれば、18歳のアマチュアゴルファーがすべてを変えてくれるかもしれない。期待がふくらむ一方、長くゴルフの世界を見てきた経験から考えると、その可能性は「50%あるかないか」だった。
プロにはプロの意地がある。最終ホールの最終組で優勝争いをする重圧に高校生が耐えられるのか。柴森の興味と不安はその一点にあった。
《とにかく、バーディを狙おう。そうすれば、勝負になるかもしれない》
宮里はそう心に決めてティーグラウンドに立った。優勝や記録、まして将来のことはこの時点になっても頭をかすめなかった。
先に打った山口のティーショットは美しい弧を描いてフェアウェイをとらえたが、宮里は見ていなかった。自分のことだけに集中していた。
右側に池があった。
《大胆に池を越していこう。躊躇して中途半端なスイングだけはやめよう》
そう言い聞かせて振り切ったドライバーショットは240ヤードを越え、この日一番のショットになった。
ピンまでは残り218ヤードだった。
《この距離なら、グリーンにのせられる》
アプローチのことを考えながらボールの止まった場所まで大股で歩いたが、前の組がまだグリーンに残っていた。
ここでリズムが狂ってしまう。
スプーンを手に、素振りをした。《不調だけど、いいイメージで打てるように》何度も繰り返した。水を口に含んだ。まだ、グリーンに人影はある。また、素振りを繰り返した。イメージを作るための素振りが、いつのまにか待ち時間をやり過ごすためだけのものになった。実際には5分足らずだったが、《もう30分ぐらい待ってるんじゃないか》と、彼女は感じていた。初めて味わう感覚だった。
ようやく、グリーンがあいた。だが、宮里がクラブを振り切った瞬間、実況席の三雲茂晴アナウンサーは「ああっ、これは……」と思わず叫んだ。
ギャラリーの短い悲鳴がため息になって広がっていく。ツー・オンを狙ったはずの打球はトップし、グリーンを大きく右にはずれてフェアウェイを転がっていった。
キャディの犬飼はそれまで動揺を見せなかった高校生の顔が一瞬、苦痛にゆがんだのを見ている。
(以下、Number633号へ)