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「“きょうだい児”という言葉も初めて知って」初代バスケ選手会長・岡田優介(40歳)が語る障害児育児のリアル「息子のことを公表した理由は…」 

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ミムラユウスケ

ミムラユウスケYusuke Mimura

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photograph by本人のInstagramより引用

posted2024/10/06 11:01

「“きょうだい児”という言葉も初めて知って」初代バスケ選手会長・岡田優介(40歳)が語る障害児育児のリアル「息子のことを公表した理由は…」<Number Web> photograph by 本人のInstagramより引用

公認会計士の資格も持つ「文武両道」バスケ選手として有名な岡田優介。2児の父でもある岡田だが、長男の朔玖君は知的障害と自閉スペクトラム症を持つ

 もちろん昭和の頑固親父のようなスパルタ教育をするつもりはない。大前提として、自分が死ぬまでの間に、娘が朔玖君の介護をしなくても生活していけるような環境を作ろうと決めている。

 ただ、少なくとも自分たちの子どもとして育っていけば、コントロールできないことに対して文句だけを言うようなことにはならないだろうという確信はあるという。

 岡田がこういった考え方にたどり着いた理由を考えると、本人の生い立ちを避けては通れない。

 実は、6年前、岡田は自身の経歴についてWEB上で公開しようとしたことがあった。しかし、最後まで書き切れずに終わってしまった。多くの人がそうであるように、自分のことを客観視するにはあまりに重いテーマなのかもしれない。書きかけの文章は、今もまだ岡田のPCに眠っている。

岡田の考え方のベースにある「幼少期の記憶」

 岡田が保育園に通っていた時期に両親が離婚して、兄と妹を含めた3人の子たちは母親のもとで育てられた。

 離婚後しばらくは「父親だった人」と顔を合わせる機会もあったが、次第に会うことはなくなった。最後に会ったのがいつだったのかは思い出せない。ただ、離婚するまで用いられていた旧姓と共に「○○○ゆうすけ」と書かれた保育園で使うタオルだけは鮮明に覚えているという。

 自分の考え方が培われたベースには、両親の離婚に至るまでの流れが関係しているのだろうと岡田も感じている。

「多分、あのころに逆境を何とかして切り抜けようという能力はついたと思います。みんなが持っているものを買ってもらえなかったり、『どうして僕だけ、こんなにショボイ弁当なんだ』と感じることもありました。どうやったら、あの環境から抜け出せるのかをずっと考えていたかもしれません」

 東京で育った岡田は、そんな環境下では私立高校に通うのは無理だとわかっていた。当初はバスケに打ち込める都立高校を探し、練習参加もした。ただ、進路を探るなかで、学費が免除される「特待生」という制度の存在を知った。そして、土浦日大高(茨城)の特待生の試験を受け、無事に合格した。茨城県にある寮で生活の面倒も見てもらえることも魅力的だった。

 青山学院大への進学時もそうだ。金銭的に恵まれない生徒が申請できる奨学金と、多くの学生が利用できる利子付きで借りる貸与型の奨学金。その両方を駆使した。

 世間では、女手一つで3人の子どもを育てた立派な母親がいて、貧しいながらも家族は団結して……というステレオタイプのイメージを抱くかもしれない。

 ただ、現実は違った。「早く家を出たい」というのが岡田の人生のキーワードだった。

<次回へつづく>

#3に続く
きっかけは「両親の死」…40歳になった“元日本代表Bリーガー”が3部チームでの再挑戦を選んだワケ「最後に納得いく何かをつかみたいんです」

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