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森保一監督の告白「あのときは悔しかった」18歳での“屈辱の経験”「給料も1万円少なくて…」“超無名”の高校生が日本代表になるまで
text by
木崎伸也Shinya Kizaki
photograph byJ.LEAGUE
posted2024/02/03 11:02
1993年、Jリーグ開幕時の森保一(当時24歳)。無名の高校生だった森保がJリーグにたどり着くまでには想像以上の苦労があった
「森保の未来を考えると、とても就職を取り消すとは言えない。ちょうど当時のマツダ運輸の社長がサッカー部OBでね。無理を言って、森保を預かってもらった。ただ、それを森保に伝えるのは心苦しかったですよ。1人だけ職場が違うし、初任給もみんなより安いんですから」
なぜ18歳森保の評価は低かった?
それにしても、なぜ森保は「6番目」の扱いだったのだろう。答えは簡単だ。体がひょろひょろで体重が58kg(身長174cm)しかなく、わかりやすい武器もない。何より所属していた長崎日大高校が全国大会に1度も出られなかった。
当時、同校は県内でベスト4に入れるようになっていたものの、国見高校にだけは一向に勝てない。その結果、インターハイと高校選手権に1度も出場できなかった。
森保は高3のとき、個人としてかろうじて長崎県選抜の一員として国体に参加できたが、16人中14人が国見の選手だった。オール国見にしないようバランスを取るために選ばれたにすぎず、当然出場機会は回ってこなかった。
高校時代の森保はそもそもスカウトに見てもらえる土俵に立てていなかったのである。
にもかかわらずなぜ名門マツダのアンテナに引っかかったのか? それは長崎日大高校の恩師・下田規貴監督が「森保をなんとかしてやりたい」という一心で今西に売り込んだからだ。
森保が高2の冬、下田は今西へ1通の年賀状を送った。
<続く>
森保一(もりやす・はじめ)
1968年8月23日、静岡県生まれ。長崎県出身。1987年に長崎日大高を卒業後、マツダサッカークラブ(現・サンフレッチェ広島)に入団する。現役時代は、広島、仙台などで活躍し、代表通算35試合出場。1993年10月にドーハの悲劇を経験。2003年に現役引退後、広島の監督として3度のJ1制覇。2018年ロシアW杯ではコーチを務め、2021年東京五輪では日本を4位に、2022年カタールW杯ではベスト16に導いた