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森保一監督の告白「あのときは悔しかった」18歳での“屈辱の経験”「給料も1万円少なくて…」“超無名”の高校生が日本代表になるまで
text by
木崎伸也Shinya Kizaki
photograph byJ.LEAGUE
posted2024/02/03 11:02
1993年、Jリーグ開幕時の森保一(当時24歳)。無名の高校生だった森保がJリーグにたどり着くまでには想像以上の苦労があった
1968年生まれの森保は、1987年3月に長崎日大高校を卒業して、18歳でマツダに入団している。
屈辱の経験――。それは高卒でマツダに入団するとき、1人だけ子会社の採用になったことだ。
マツダは1960年代に日本リーグを4連覇した名門チーム(当時は東洋工業)で、入団すると「マツダ株式会社」の正社員になるのが通例だった。仮に選手として大成できなくても、社業を頑張れば定年まで働き続けられる。非常に恵まれた待遇だ。
だが、新卒選手同期6人の中で、森保だけが子会社の「マツダ運輸株式会社」(現マツダロジスティクス株式会社)勤務になってしまったのである。正社員には変わりないのだが、1人だけ違う会社になったら疎外感を覚えるのは当然だろう。
「月給も1万円安かった」
森保は『ぽいち 森保一自伝』に当時の心情を吐露している。
「マツダとマツダ運輸とでは微妙に手当の差があった。(寮から)同期と出社する際も、入口は同じでもマツダとマツダ運輸とでは職場が左右に分かれて、一人だけ違う道だった。これも、やはり悔しかった。
トップチームで頑張れば、マツダ運輸からマツダへ採用を切り替えようと言い、励まし続けてくれていた今西さんの言葉が刺激になり、とにかくハングリーな気持ちでサッカーに取り組んでいた」
さまざまな資料の情報を合わせると、当時高卒の初任給はマツダがおよそ13万円(手取り9万円)、マツダ運輸がおよそ12万円(手取り8万円)だったようだ。高校を卒業したばかりの18歳にとって、1万円の差はかなり大きい。同期と食事に行くたびに、嫉妬が頭をもたげたに違いない。
「就職を取り消すとは言えない」
もちろん今西としても最初から格差をつけたかったわけではない。森保も「マツダ株式会社」に採用する予定だった。しかし、80年代半ばの円高不況で自動車業界はあおりを受け、新卒採用枠が6人から5人へ急遽減らされてしまったのである。評価が最も低い森保をカットせざるをえなかった。
採用自体が取り消されそうになったため、今西は受け入れ先を見つけるために奔走した。今西は振り返る。