酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「北京五輪きっかけで高校野球やMLBにも興味を」独立L→西武の中国出身アナリストが見た日本野球「栗山巧選手と中村剛也選手からは…」
posted2024/01/05 17:29
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
JIJI PRESS/Seibu Lions
筆者は数年前、野球におけるバイオメカニクス(生体力学)研究の第一人者で、コーチング学の研究室を主宰する筑波大学の川村卓准教授の取材をしていた。川村門下には吉井理人、大島公一、仁志敏久など錚々たる野球人もいたが、同時に若手の大学院生もたくさんいた。
今では彼らはスポーツ関連企業の管理職やメーカーの開発者になったり、それぞれ活躍の道を拡げている。中でも飛びぬけて大柄で、口数が少ない院生が劉璞臻(りゅう・はくしん)さんだった。中国からの留学生で、当時はまだ日本語でのコミュニケーションが難しそうに思えたのだが——。
北京五輪→高校野球に興味を持って留学することに
今回、西武ライオンズのバイオメカニクス担当になった劉さんにインタビューをして、流ちょうな日本語を話すことにまず驚いた。そもそも中国に生まれた劉さんは、なぜ野球に興味を持つようになったのか?
「私が高校3年の2008年、北京オリンピックがあって、初めて野球という競技に触れました。それから日本の高校野球やMLBの試合も見るようになりました。大学は山東省の山東体育学院に進んで体育教育について学びました。
中国の教員免許も取得して、野球に興味があったのでアマチュアの野球チームに入りましたが、どうしても大学院で野球を学びたいと思って、両親と相談しながら留学を決意しました。野球を学ぶなら日本かアメリカしか選択肢はありませんが、もともと日本の野球に興味を持っていたので、日本に留学することにしました。川村先生の名前はネットで知っていましたし、中国人の先輩からも『偉い先生だ』と教えてもらいました」
そこから初めての日本での生活が始まった。当初は日本語があまり理解できず、大変さを味わったようだ。
「川村先生の研究室ではバイオメカニクスについて学びましたが、中国では体育教育を専攻していたので、専門的な動作解析などはほとんど知らなくて、日本語もバイオメカニクスもイチから勉強をして、2年かかりました」
独立リーグでの“何でも屋”を経て
オリンピックで野球競技があったのは2008年の北京が最後(2021年の東京五輪で限定的に復活)。劉さんが日本に留学した頃には、中国の野球熱は下火になっていたはずだが……大学院を修了したら、その先はどう考えていたのか。