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「海外に行ったら代表に呼ばれない」“日本バレー鎖国時代”に加藤陽一はなぜ海を渡ったのか? 石川祐希、高橋藍へ続くイタリア挑戦の系譜
text by
弓削高志Takashi Yuge
photograph byAFLO SPORT
posted2023/10/17 11:00
日本代表のエースとして活躍した加藤陽一。世界最高峰イタリア・セリエAのクラブに自ら売り込み、当時は珍しかった海外移籍を実現させた
――加藤さんがトレヴィーゾへ入団したのが2002年。あらためて海外移籍を決意した動機や経緯を教えていただけますか。当時は2000年のシドニー五輪出場を逃したのがきっかけの一つといわれていましたが。
加藤 もともと筑波大学時代にヨーロッパのクラブスポーツのあり方を勉強していて、イタリアの球技はなぜこんなに強いのかという興味がありました。日本の企業(東レ)に就職して、ナショナルチームに呼ばれて、日の丸をつけて(国内では)一番の環境や指導者とやっているはずなのに五輪の切符を逃した。なぜ世界を相手に勝てなくなってしまったのかというのが自分の中で疑問になったんです。ジュニア年代ではメダルを取れても、シニアになると日本は勝てない。
代表チームで試合を重ねるうちに海外の選手たちはプロとして生活をしている、バレーボールで生計を立てているということを知って、それが“本物”なのではと考えるようになりました。(1995年に渡米しメジャーリーグに挑戦した)野球の野茂(英雄)さんだったり、(1994年にイタリアで初のアジア人選手となった)サッカーのカズさん(=三浦知良)だったり、バレーボールでも日本人が本物の世界を知ることができるんじゃないか、と思ったのがきっかけでした。
まるで“道場破り”の営業活動
――当時の日本代表には「国内のVリーグか大学所属の選手しか代表に招集しない」という“鎖国的”な規約があったと聞いています。海外への移籍で代表から遠ざけられるのではという不安はなかったんですか。
加藤 そうだったみたいですね。僕も実際に移籍の話を進めていく中で、そういう規約があることはギリギリまで知らなくて。サッカーのように海外移籍が当たり前だと思っていた。でも、井の中の蛙ではなく世界のバレーボールを知りたい、日本の仲間にも知ってもらいたいという気持ちが強かったんです。
自分の“営業活動”は大変でした。交渉したチームの中には『五輪に出ていないアジア人のアタッカーをなぜ獲得する必要があるんだ』と考えたところもあったと思います。実際に自分のプレーを見てもらって判断してほしいという思いがあったので、プレー集のビデオを送るだけでなくVリーグの休暇を利用して、1週間でイタリアとフランスを移動しながらトライアウトをお願いして回りました。
――まるで道場破りじゃないですか。
加藤 本当にそうですね(笑)。時差ボケもあって、現地に着いたその日に「練習参加しろ」と言われたときには不安もありました。でも、やっぱりアピールしようという気持ちが自分の体を動かしてくれた。(見ず知らずのアジア人選手が)チームの練習に加わって、同じポジションの選手からすれば面白くなかったでしょうね。でも、そこは僕もプロ意識を持ってやろうと。何を思われようが、自分のパフォーマンスを1本1本で伝えるんだという思いでした。