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「大変な地位に上がっちゃったな…」千代の富士(当時26歳)は綱の重圧に潰されかけていた…のちの大横綱が九州で流した“覚醒の涙”
posted2022/11/15 11:01
text by
荒井太郎Taro Arai
photograph by
JIJI PRESS
今年も早いもので1年納めの九州場所が開幕した。一人横綱・照ノ富士の休場が発表され、横綱土俵入りが見られないのは寂しいが、関脇、小結に7人もの役力士がひしめき、平幕上位にも実力者が名を揃え、大関陣以下、横綱不在の土俵を大いに盛り上げてくれるはずだ。
会場の福岡国際センターは今から41年前の昭和56年(1981年)10月に開業し、同年の九州場所は横綱2場所目の千代の富士が通算3度目の優勝。以来、昭和の時代が終わるまで「九州8連覇」を成し遂げた。福岡は夫人の出身地であり、現役時代から「第二の故郷」と言うほどで、よほど水が合っていたのだろう。
前人未到の通算1000勝達成に角界初の国民栄誉賞受賞、優勝は当時史上1位だった大鵬の32回に肉薄する31回、昭和以降では双葉山の69連勝、白鵬の63連勝に次ぐ53連勝など、数々の偉大な足跡を残して長く頂点に君臨した第58代横綱・千代の富士も、当初は綱のプレッシャーに押し潰されそうになり、もがき苦しんでいた時期があった。
当初は「短命横綱」だと見られていた千代の富士
昭和56年は“ウルフフィーバー”に沸いた1年だった。同年初場所は関脇で初日から連勝街道をばく進。10日目に同じく全勝だった横綱・北の湖に土がつくと単独トップで千秋楽を迎え、直接対決で敗れて両者は1敗で並んだものの、優勝決定戦では本割の雪辱を果たし、初賜盃を手にするとともに場所後、大関に昇進。日本列島を熱狂の渦に巻き込んだ。
破竹の勢いに乗る“ウルフ”は新大関場所こそ11勝に終わるが、翌夏場所は北の湖との千秋楽相星決戦に敗れて優勝次点となる13勝。続く名古屋場所も再び北の湖との1敗同士の楽日決戦を制し、2度目の賜盃を抱いて場所後、26歳で横綱に推挙された。
わずか半年の間に関脇から疾風のごとく角界最上位に駆け上がっていったが、好事魔多し。新横綱場所は左足首を負傷して3日目から休場してしまう。
細身の体にはそぐわない豪快な投げに頼り過ぎる相撲から、立ち合いで左の前廻しを掴んで一気に走る速攻相撲に変貌すると瞬く間に綱を手繰り寄せた。しかし、当時はのちの全盛期よりは一回り細い体つきに、肩の脱臼癖などケガも多かったことから「短命横綱」と見る向きが少なくなかった。後年の威風堂々の大横綱の姿をこの時点で予見していた者は、おそらく皆無であっただろう。