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名言「ふなきぃ~」24年前・伝説のジャンプ団体金メダル…あの「白馬村」には今、何がある? 現地で驚いた「帰りの『特急あずさ』が満員だった話」
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byJIJI PRESS
posted2022/02/19 17:03
98年長野五輪、スキージャンプ団体優勝メンバー。フラワーセレモニーで観客に手を振る日本チーム。左から船木和喜、原田雅彦、岡部孝信、斎藤浩哉(長野県白馬村)
「白馬村」には今、何がある?
白馬駅を降りると……いや、これはもう「何がある?」などと思ったのが大間違いというか、典型的なリゾート地であった。
町の中心に建つ白馬駅は、南北に大きく翼を広げるような形をしていて、正面の道の先には雪をかぶった白馬の山々。そこにたくさんのスキー場があるのだろう。駅前にはタクシーがいくつも停まっている広場がある。スノーリゾートの玄関口らしく、どのタクシーも屋根にスキーやスノボの板を載せられるようだ。
観光地らしい土産物店や飲食店が駅前広場を取り囲み、ホテルや民宿、スキー場と駅を結ぶマイクロバスも忙しそうに行ったり来たりしている。すぐ駅前には国道148号が大糸線と平行するように通っているのだが、この道にはあちこちのナンバーをつけたクルマが絶え間なく走る。少し駅の周りを歩いてみると、見晴らしの良いところからは山の斜面のスキー場、そしてジャンプ競技場も小さく見える。
ちょうど昼時に白馬に着いたので、長野といえばソバということでどこかのソバ屋に入ろうと思った。そこで国道沿いの店をいくつか回ったのだが、コロナが流行っているからなのか、それとも別の理由があるのか、営業していない店が多い。やっている店を見つけても、店の前の駐車場はすでに満杯で、店の外で待っている客の姿も多い。これもまたコロナ禍におけるリゾート地の現実のひとつなのだろう。
つまるところ白馬は筆者が改めて語るまでもなく、スキー・スノボ勢にはとうの昔からおなじみのザ・スノーリゾート。寒いといえば寒いが、極寒というほどでもなく、スキー客がたくさんやってきているからか華やかな雰囲気も漂っている。白馬の駅も、大糸線というどちらかというとローカルな路線の駅にもかかわらず、リゾート感の満ちあふれた健康的な駅であった。
では、白馬はいつからスノーリゾートになった?
ここで気になるのが、いったいいつから白馬はスノーリゾートの町になったのか、だ。長野オリンピック!といいたいところだが、その当時はすでにバブル期のスキーブームは過ぎ去っていて、いわばブームの余韻のようなイベントだった。それよりも遥か前から白馬はスノーリゾートの町だったのだろう。
調べてみると、観光地としての白馬の開発は明治のはじめに温泉地としての整備がはじまったことが最初のようだ。大正時代にはスキーが導入され、いくつか小さなスキー場が生まれた。1932年には大糸線の白馬駅(当時は信濃四ツ谷駅)が開業し、松本はもとより首都圏からのアクセスも確立されている。冬はスキー客、夏は登山客が各地からやってくるようになったのだ。