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名言「ふなきぃ~」24年前・伝説のジャンプ団体金メダル…あの「白馬村」には今、何がある? 現地で驚いた「帰りの『特急あずさ』が満員だった話」
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byJIJI PRESS
posted2022/02/19 17:03
98年長野五輪、スキージャンプ団体優勝メンバー。フラワーセレモニーで観客に手を振る日本チーム。左から船木和喜、原田雅彦、岡部孝信、斎藤浩哉(長野県白馬村)
それに合わせて、登山者を自宅に泊める登山ガイドが現れるようになり、これが日本の民宿の発祥だという。今でいう(コロナですっかり忘れ去られた感もあるが)民泊のルーツのようなものが、昭和のはじめに白馬ではじまっていたとは驚きである。
このように戦前からリゾート地としての萌芽が見えていた白馬だが、とはいえ本格的な開発は戦後になってからだ。白馬村は1957年に東急の資本を受け入れ、山頂部近くまで広く開拓した八方尾根スキー場が生まれる。八方尾根スキー場は長野オリンピックでアルペン競技の会場となっていて、あのマイヤーの大転倒もここで起きている。
こうして戦後に大型スキー場が整備されるようになるのに合わせて、大糸線も輸送力を増やしてくる。1959年には白馬駅(信濃四ツ谷駅)まで電化され、1961年には新宿からの直通急行列車も運転されるようになった。さらに1967年には新宿から白馬、さらに電化区間の果ての南小谷駅まで特急「あずさ」が走り出し、首都圏と白馬が一直線に結ばれる。これによって、白馬はリゾート地として一層の飛躍を遂げた。
東急のおかげもあってのスキー場開発と民宿やホテルの整備も進み、さらに特急「あずさ」のおかげもあって白馬駅のお客の数は年々増加。1975年には乗車人員約43万8000人のピークを迎えている。この時代のスキー客はクルマではなく鉄道でやってくるのが普通だったというのもあろうが、それにしたってたいそうな賑わいだったのだろう。
その後、白馬駅のお客の数はどんどん減っていくことになるが、それはスキーブームの落ち着きとマイカー利用者の増加が影響しているといっていい。リゾート地としての白馬の存在感は衰えることはなく、冬のみならず夏場も避暑のリゾート地として賑わうようになる。
バブル期には若者向けの店やペンションがたくさんできてまるで原宿化。『週刊文春』1986年9月11日号にはその様子を揶揄した「長野県北安曇郡白馬村字原宿 日本のイナカは、いまにみんなこうなってしまうのかしらん」などという記事も載っている。
白馬で初めて勝ったのは「20歳葛西紀明だった」
そうしたリゾート地・白馬の行き着く先にあったのが、1998年の長野オリンピックであった。