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名波浩が明かす前田遼一“変身”の歴史 アテネ五輪バックアップメンバー選出に「俺、行かないっす」
posted2021/01/20 11:00
text by
北條聡Satoshi Hojo
photograph by
Kim Jang Hun/AFLO
Jリーグを代表する点取り屋がまた1人、現役生活にピリオドを打った。元日本代表の前田遼一だ。
実働期間は実に21年。2000年に暁星高から鳴り物入りでプロの門をくぐった若者も、すでに39歳になっていた。
ジュビロ磐田に在籍した09、10年にJ1史上初の2年連続得点王を獲得。J1通算154ゴールは歴代5位の記録になる。もっとも、生まれながらの9番(ストライカー)だったわけではない。
プロ入り当時はMF。それも2列目からの仕掛人である。ただ、当時の磐田と言えば、日本代表の名波浩や藤田俊哉など当代屈指のタレントがひしめく激戦区だ。そこへ割って入るには何かが欠けていた。
「独りで突っかけて取られてしまう。とにかく、ボールロストが多かった」
名波の回想だ。試合中はもとより、日々の練習で先輩たちから、たびたび球離れの悪さを指摘された。あのまま一騎駆けに執着していたら、プロとしてのキャリアは短命に終わっていたかもしれない。
ゼロから始めた「FW」
やがてFWに転じ、独自の道を極めることになるが、容易な道のりではなかった。何しろ、磐田の前線には重鎮の中山雅史と飛ぶ鳥を落とす勢いにあった高原直泰という二門の大砲がそろっていたからだ。
いや、それでなくともストライカーは他のポジションとの互換性に乏しい特殊な仕事である。GKと並ぶ専門職と言っていい。おいそれと適応できるような類のモノではない。しかも、得点王を手中に収める領域へ到達するとなれば、なおさらだ。名波が言う。
「どうすればシュートエリアで打てるのか。そこが出発点だったからね。ほとんどゼロから始めたと言ってもいい」
その意味で中山、高原という格好の手本が身近にあったのは大きい。だが、飛躍の理由はそれだけではあるまい。一介のFWから脱皮する契機があったはずだ。