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「北海道からも日本一を目指せるんだ」2004年夏の甲子園、駒大苫小牧“まさかのV”がもたらした革新《北の指揮官たちの証言》
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byKYODO
posted2021/08/14 11:03
2004年夏の甲子園で、北海道勢初の優勝を成し遂げた駒大苫小牧。偉業が北の大地にもたらしたものとは?
駒大苫小牧が撒いた種は生きていた
北海道はもとより野球界の革命児となった香田だったが、急激な変化に対応し切れなかった学校サイドとの確執もあって、'07年夏を最後に退任した。
以降、一つの命題が投げ掛けられた。駒大苫小牧の2.9連覇は、北海道全体が強くなったのか、それとも、駒大苫小牧が強くなっただけだったのか。
香田が北海道を去ってからしばらく、甲子園における道勢はほとんどが初戦で消えた。関係者の間からは「やはり駒大苫小牧が強かっただけ」という声が漏れ聞こえてきた。だが駒大苫小牧が撒いた種は、時間はかかったが、着実に成長していた。
'15年春、東海大四は決勝まで勝ち進んだ。決勝は敦賀気比に1-3で敗れたが、久々に北海道が熱く燃えた。大脇が思い出す。
「香田さんが初優勝したときにしてくれた話を思い出しましたね。横浜戦を前に、選手たちが『楽勝だろ』みたいなことを言ってて、何言ってんだって思った、と。でも、僕らも準決勝で浦学と当たったんですけど、前年秋の神宮大会でコールド負けしてるにもかかわらず、『早くやりてえな』みたいなことを言ってた。うちらの選手も異常なくらい、自信を持ち始めてたんです。自分が現役のときも、これくらい自信もってやればよかったのにって思いましたね」
ただ、こうも話す。
「選手をUSJに連れてってやろうかなと思ったけどできなかった。ただのマネだなとも思ったし。でもいつか、やりたいな」
香田は甲子園で初戦を突破すると、ご褒美として選手らをUSJへ連れて行った。'04年夏、'05年春夏と甲子園に出場した五十嵐は、3回もUSJに行っている。
「あれが楽しみで、楽しみで」
大脇は香田の指導法をただ真似するのではなく、自分なりに咀嚼し、消化してきた。だから相応の時間を要したのだ。
「駒大の優勝がなかったら、うちの準優勝もなかった。平川さんがどう思ってるかはわからないですけど、うちの準優勝がなかったら、北海の準優勝もなかったんじゃないかな。全部、つながってるんですよ」
「北海道の指導者は勘違いする暇もない」
東海大四が準優勝した翌年夏、今度は、北海が準優勝を果たした。決勝のあと、平川は香田にメールを送ったという。
〈お陰で、ここまでこれました〉
ただ「ここ」はスタートラインでもあった。
「あいつのすごさがわかった。決勝で勝って、翌年連覇して、'06年はまた決勝にいったわけですから。僕なんか、ただのビギナーズラック。ここからどうするかですよ。北海道の指導者は少し勝ったからといって勘違いする暇もない。それが香田が残してくれた最大の遺産じゃないですか」
かつては「北海道の野球」という言葉があった。冬場、グラウンドが使えない分、室内トレーニングで体を大きくし、豪快に打ち勝つ野球を指した。だが、近年はすっかり聞かれなくなった。大脇が言う。
「もうハンディだとは思ってないので、特別な野球をする必要もない」
しかし、これだけ成熟したスポーツイベントで、3年連続で決勝へ勝ち進むことなど二度とないかもしれない。そう水を向けると、平川はやんわりと否定した。
「いや、そんなことないと思いますよ」
やってみないとわからない――。それが香田の口癖だった。駒大苫小牧のスピリットは、15年の歳月を経て北の大地にしっかりと根付いていた。
平川敦Osamu Hirakawa
1971年生まれ。'89年夏、北海の投手として甲子園出場。北海学園大在学時から北海コーチを務め、'98年監督就任。'16年夏の甲子園ではエース大西健斗を中心に快進撃を続け準優勝。1901年創部の伝統校の意地を見せた。
込山久夫Hisao Komiyama
1946年生まれ。'64年夏、旭川南の捕手として甲子園に出場。'77年に旭川実業の野球部監督に就任。'95年夏、松山商、鹿児島商などの強豪校を破り北北海道初のベスト8。「ミラクル旭実」と呼ばれた。'08年監督勇退。
大脇英徳Hidenori Oowaki
1975年生まれ。'93年夏、東海大四の4番・主将として甲子園に出場。東海大、社会人野球を経て'04年から母校・東海大四の監督に就任。'15年春のセンバツでは北海道勢として52年ぶりの決勝に進出し、準優勝に輝いた。