ゴルフボールの転がる先BACK NUMBER
青木功の右腕は元吉本興業の副社長。
「まず人を集めてからものを売る」
text by
桂川洋一Yoichi Katsuragawa
photograph byYoichi Katsuragawa
posted2017/08/01 11:00
ファンへのサインに応じる宮里優作。コースでの写真撮影はご法度だったが、こういったエリアが作られる大会も増えてきた。
よしもとでコンテンツビジネスを率先した実績。
TUBEは毎年夏のリリースを控え、メンバー他スタッフはみな日本の冬にハワイに飛び、レコーディングやプロモーション活動用の撮影などにいそしんだ。
「僕とボーカルの前田亘輝くんとは年が15歳以上も違う。会話も続かなくなるから、ゴルフを始めたんですね」と橋爪氏。ツアープロも同じようにハワイで合宿を組んだり、試合に出場したりする時期でもあり、横田真一や深堀圭一郎といった面々と交流を持つようになった。
ソニー・ミュージックを離れてから、株式会社よしもとアール・アンド・シーの代表取締役として橋爪氏が尽力したコンテンツビジネス。今となっては広く知られるワードだが、当時のエンターテインメント業界では先進的な手法といえた。
コンテンツビジネスとは、企業が知的生産物を制作、管理し、ユーザーに提供する業態のこと。テレビ局をはじめ大メディアにそれらの主導権があった時代は、タレントやアーティスト、そのエージェント主導でオリジナルの著作物を管理し、視聴者や読者に提供する時代へと変わった。
「吉本には塩漬けになったままのコンテンツがたくさんある。『こういう割合で(お金を)支払うから、一緒にやりましょうよ』という話をメディア側に持ち掛けた」(橋爪氏)。
オリジナルのDVD制作で商品パッケージ化し、コンテンツ制作者側が劇場も作ることで、お客に笑いを直接提供するようになった。
6000人の芸人を食べさせていくために。
'90年代後半からはインターネットがさらに事情を変えた。
「ネットは費用も安く、誰でも配信できる。テレビにはなかなか出られない人も顔を出すことができる。吉本って、6000人くらいの芸人の所属登録があるんですが、彼らを食べさせていくためにインターネットは大変なメリット、媒体が増えることはありがたかった。ましてやテレビでは不可能な企画もできたりするんですから」
テレビや雑誌の影響力が相対的に低下したことも好都合だった。日陰にあった才能にも、日を当てるチャンスが膨らんだからだ。