ゴルフボールの転がる先BACK NUMBER
松山英樹も米トップ選手も憧れた。
宮里藍という、最高のロールモデル。
text by
桂川洋一Yoichi Katsuragawa
photograph byAFLO
posted2017/06/01 08:00
引退会見では目に光るものを溜めながらも笑みを浮かべていた宮里藍。その優しさと芯の強さが、彼女の魅力である。
米ツアーを転戦後、日本での試合に出て話したこと。
ジュニア時代に全米女子オープンを制する夢を描き、渡米した。海外では体格差はいっそう歴然となり、フィーリングに頼る比重はもちろん大きくなった。
2009年、フランスでのエビアンマスターズ。本格参戦から米ツアーで勝つまでに約4年かかった。厳しい環境に身を置いたまま、数々の苦難を乗り越えて悲願を成就させた。
キャリア晩年を迎えつつあった数年前、宮里は一時帰国して出場した試合の大ギャラリーを見て「日本の女子ゴルフの人気を感じる。毎週この雰囲気でプレーできるなら日本のゴルファーは幸せです」と感慨深げに言っていた。
米国と日本では男女ゴルフの人気に逆転現象が起こって久しい。米女子ツアーは高額賞金と名誉がかかる大会揃いとはいえ、人気面で男子に大きく水をあけられている。宮里であっても、観客をほとんど引き連れることなくプレーすることが珍しくない。米国の厳しさは、選手やコースのレベル云々でないところにもある。
「彼女がどれほど米国のゴルフ界を盛りたててきたか」
何度もタイトルを争った元世界ランク1位のステーシー・ルイスは、宮里引退の報を受けてこう語った。
「彼女がどれほど母国のゴルフ界を盛りたててきたか、影響の大きさは言葉にできない。たくさんの日本人選手に(米ツアーへの)扉を開いた。他に(日本人選手が)ほとんどいない時期に海を渡り、素晴らしいプレーをしてきた。一緒にプレーをするのが大好きだった。みんな、さびしくて仕方がない」
自身が爆発的な人気を呼んだ日本女子ツアーにいれば、宮里は女子高生プロ出身のアイドル然とした扱われ方が、約束されていたに違いない。だが彼女は、そこに浸かることなく毅然とアスリートとしての道を進み続けた。
その生き方自体が、人種や言葉の壁を越えて多くの尊敬の念を集めた。