マスクの窓から野球を見ればBACK NUMBER
東海大福岡・安田大将に頭が下がる。
120kmのボールで打者を崩す緩急の妙。
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph byKyodo News
posted2017/03/31 17:00
マウンドでの安田大将はなんとも余裕のある表情をしているように見える。打者との駆け引きには、精神的な容量が必要なのだ。
東海大福岡の杉山監督は、元都市対抗の名手!
「今は速球のMAXとか、通算50ホームランとか、スピードやパワーばかりが注目されますけど、野球は決してそればっかりじゃない。テクニックとか知恵っていうものも、有力な武器になることを見てもらえたと思います。野球の面白さって、そっちのほうじゃないかなぁって思いますねぇ、むしろ」
取り囲む記者たち、ひとりひとりと目を合わせるようにして語ってくれた東海大福岡高・杉山繁俊監督の表情を見ながら、アッ! と小さく叫んでしまった。
東海大相模高から東海大学。好守好打の二塁手として活躍していた杉山繁俊“選手”。送りバントあり、エンドランあり、進塁打あり……なんでもできるつなぎ役の2番打者としての印象が今でも鮮やかに残っている。
安田にも流れる「投手の本質は緩急」という価値観。
進んだ社会人・日産自動車は、当時、「泣く子も黙る」といわれた都市対抗野球の激戦地・神奈川で鳴らした強豪の1つだった。
1980年代は、社会人野球が隆盛を誇っていた時代だ。
その中でも神奈川には、杉山繁俊の日産自動車をはじめ、東芝、日本鋼管(現・JFE)、日本石油(現・JX-ENEOS)、三菱自動車川崎にいすゞ自動車……全国を制覇した実績を持つ超一流の実力を持ったチームが、まさに群雄割拠していた時期。
ちなみに、このセンバツに福井工大福井高を率いて出場した大須賀康浩監督は、その頃、三菱自動車川崎の内野手として、“うるさい”バッティングを発揮していた。
そして、各チームに絶対的エースとして君臨していた快腕たち。東芝・太田垣耕造(青山学院大)、黒紙義弘(亜細亜大)、日本鋼管・木田勇(横浜一商→日本鋼管→日本ハム)、三菱自動車川崎・小笠原敏雄、日産自動車・藤田康夫……。その誰もが、巧みな緩急を駆使しながら、打者をのめらせ、詰まらせ、打ち損じを誘ってアウトを重ねていく達者な投手たちだった。
そんなテクニシャンたちを向こうにまわしながら、日々、その攻略法に心を砕いていた社会人野球時代。
当時、野球人としていやというほど体の中に刷り込まれた難攻不落の投手の“本質”。
それが、緩急。つまり、タイミングを支配することだったのではないか。そして、そのエッセンスを、今度は聡明なサイドハンド・安田大将に刷り込んできたとしたら……。