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五輪出場のフェアリージャパン。
進化の秘密は“素材型”選考に。
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byKYODO NEWS
posted2015/09/22 10:30
日本勢のメダル獲得は1975年のマドリード大会以来の快挙。
完成度よりも、身体能力を優先した選考に反対も。
新体操は、かつて国内で一番強いチームを代表にしていた時代から、選手を選抜して編成する方式に変えた経緯がある。しかし、選ばれた選手の所属先が異なるため、チームとしての練習も限られていた。練習場所に苦労することも珍しくない時代であり、強化にもおのずと限界があった。結果、2003年の世界選手権で16位に終わり、アテネ五輪出場枠を逃すことになった。
山崎氏はそこに手をつけた。
2005年末、オーディションを実施する。そこで選ばれた10代の選手たちは山形、岐阜、別府などそれぞれに暮らしていた町から千葉県内の高校に転校し、県内のマンションで共同生活を送りつつ、一緒に練習を重ねた。いわば、「長期合宿」である。練習時間は、長いときは7時間を超えた。
選手たちを選ぶにあたって重視したのは、選手としての完成度よりも、柔軟性をはじめとする身体能力の高さやプロポーションだった。
「世界のトップクラスの国と戦える難度の高い技をこなすには、身体能力が大切です」
裏返せば、その時点でレベルの高い、上手な選手を選ぶわけではないということでもある。当然、批判は出る。
「なぜ日本代表なのか、という声もありました」
それでもメダルを目標とするなら、素質に恵まれた選手を充実した環境で鍛え上げるしかない、と方針を譲らなかった。選手を送り出してもらうよう、各所属先にも理解を求めた。そこには、表に出ていない苦労もあっただろう。
ロシアでの長期合宿を経て、ロンドン五輪で入賞。
2007年、「フェアリージャパン」の愛称を得た日本代表は、2008年の北京五輪出場権を獲得し、一つの結果を出した。だが本大会では予選10位で、決勝に進むには至らなかった。
そこで打ち出した次の手が、ロシアでの長期合宿であった。ロシアは新体操界屈指の強豪国だ。当地へ出向き、あらゆる面で強さの秘密を吸収しようという狙いだった。ヘッドコーチにもロシアの指導者を迎えた。
そして2012年のロンドン五輪では、大会を前に主力選手が怪我で離脱する苦境に立たされながら、7位入賞を果たした。