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訃報を聞いて思う、鉄腕の適正年俸
text by
海老沢泰久Yasuhisa Ebisawa
photograph byTakashi Tsunoda
posted2007/11/26 00:00
11月13日に稲尾和久氏が亡くなった。昭和30年代の西鉄ライオンズの大エースで、通算成績は276勝137敗だったが、残した印象はその何倍も強烈だった。
翌日の新聞の追悼記事は、昭和33年のジャイアンツとの日本シリーズで、3連敗から4連投で4連勝した快挙をたたえていたが、これは翌34年にやはりジャイアンツ相手の日本シリーズで南海ホークスの杉浦忠がなしとげた4連投4連勝とならんで、この世に野球があるかぎり永遠に語り継がれるものだろう。もっとも、そういう酷使がたたって、稲尾は実働8年、杉浦は7年で勝てないピッチャーになってしまったのだが。
むろん、シーズン中も投げに投げた。稲尾が高校を卒業してライオンズに入団したのは昭和31年だが、その年の61試合を皮切りに、肩を壊す38年までの8年間の登板数は524試合。平均すると毎年65試合ずつ投げていたことになる。
いや、いまだってそれぐらい投げるピッチャーはいるよ、という人もいるかもしれない。じっさい、一昨年はタイガースの藤川球児が80試合登板の日本記録をつくったし、今年は同じタイガースの久保田智之が90試合に登板してそれを破った。しかし彼らが投げるのは1イニングか2イニングで、シーズンを通しても100イニング程度にすぎない。稲尾はその8年間、平均すると毎年345イニング投げていたのである。内容がまったくちがう。そのすごさを、78試合で404イニング投げ、42勝14敗の成績を残した昭和36年の内容から見てみよう。
78試合のうち、先発が30試合で、完投が25試合(21勝3敗1引分け)、途中降板が5試合(3勝2敗)。救援が48試合で、最後まで投げたのが43試合(18勝9敗で、いまのセーブにあたるケースが10あった)。そして中継が5試合。つまり、先発と救援を連日のように繰り返したのである。しかも、当時の救援はいまのように1イニングを投げるのではなく、勝てそうな展開になると5回、6回でも出て行ったから、その負担はいまの比ではなかった。いうなれば、先発と、勝ち試合でのセットアッパーと抑えの役割を1人でこなしたのである。それで防御率はわずか1.69だった。
もう一度整理すると、36年の稲尾は先発で24勝5敗1引き分け、救援──しかも1人でセットアッパーと抑えをこなして、おおまかにいえば18勝と10セーブ、つまり28のホールドとセーブポイントを上げたことになる。どれをとっても第一級の成績だ。また、完投勝利を1人で先発とセットアッパーと抑えをこなしたと考えると、ホールドとセーブのポイントは49になる。
ぼくは、ときどき、この稲尾氏がいま現役だったらその年俸はいくらになるだろうと考えることがある。
今年のプロ野球のピッチャーの最高年俸は、先発が川上憲伸の3億4000万、セットアッパーがジェフ・ウィリアムスの2億3000万、抑えが岩瀬仁紀の3億8000万で、合計9億5000万だ。しかしその成績は、川上が12勝8敗、ウィリアムスが42ホールド、岩瀬が43セーブで、3人合わせても稲尾1人にかなわず、投球回数にいたっては、稲尾の404イニングに対して、3人合計しても291イニング(川上167、ウィリアムス65、岩瀬59)でその足元にもおよばない。
つまり、現在のそれぞれの役割の最高年俸のピッチャー3人を合わせたよりもはたらいたのだから、その合計9億5000万よりも高くていいことになるが、いまの選手たちの年俸が正常だというなら、それでもまだ安い気がする。