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土井正博 「教えられなかった死球の避け方」 

text by

永谷脩

永谷脩Osamu Nagatani

PROFILE

photograph byShigeki Yamamoto

posted2009/01/16 00:00

土井正博 「教えられなかった死球の避け方」<Number Web> photograph by Shigeki Yamamoto

 土井自身、近鉄に入団して18歳で4番打者をつとめている(のち西武に移籍)。2452安打(歴代9位)、465本塁打(歴代11位)の成績で名球会入りも果たしている。そんな土井が清原と一緒に打ち込みに励み、自らの経験を話すことで、頑ななその気持ちを少しずつ解きほぐしていった。

 その最中、4月下旬に清原の門限破りが発覚した時だった。ミーティングで最初に監督が「ケジメだから下に落とさなければ」と発言した時、土井コーチはひとり反対する。最終的に近藤昭仁コーチ(当時)が擁護してくれる事で残留できた。清原本人の知るところではなかったが、二人の信頼関係はますます強固なものとなっていたのだ。

 清原は5月の連休を境に、猛然と打ち始めた。だが、打ち始めると同時に悩みも出てきた。弱点とされた内角攻めが極端に多くなったのだ。「ボクサーは、向かっていく時にはパンチを避けられるが、怯んで踵の方に体重がかかると打たれっぱなしになる」(土井)のと同じ理屈で、内角を攻められていくうち体が開いていく。体が開いているので、右腕の内側の柔らかい部分に球が当たり、ケガが増えるようにもなった。

 「清原に申し訳ないと今でも思っていることがあるんです。自分がヘマをして、3年でユニフォームを脱ぐことになったから、デッドボールの避け方を教えられなかったんです。私がいなくなった後、ピッチャーたちは彼の弱点をついて抑えようと内角球を増やした。そのため死球(196個の日本一)がどんどん増えていった。だから……東尾監督の時代に自分がもう一度ユニフォームを着た時、松井稼頭央(アストロズ)や髙木大成(球団職員)に一番最初に教えたのはデッドボールの避け方だったんです。

 東尾監督(与死球165個の日本一)にわざと肘をめがけて投げてもらい、受ける練習をした。20万円もする防具をつけさせてね。どんどん防具に当てる練習をさせるうちに当て方によっては、前の壁が崩されずに済むということが分かってくる。これを清原の時にキチンと教えておけば、という思いが今でも強く残っています。内角を攻められて、デッドボールを食らっても、清原本人は決して逃げまいとした。彼は絶対に壁を崩したらあかんと必死だったはずなんです。その辺からバットが振れなくなった」

 コーチと選手のこの信頼関係は、土井が再びユニフォームを着ることになった'96年に、清原がFA宣言を1年だけ待ち、再起を図ったことでもわかる。だがその1年は、“優勝して西武に恩返ししてから出たい”という気持ちが空回りする1年だった。清原を指導する時間は、わずかしか残されていなかった。

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