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秋山成勲という稀代の異物だけが成しうること
text by
橋本宗洋Norihiro Hashimoto
photograph byJunji Hata
posted2008/05/15 17:32
大一番特有の緊張感の中、優位にたったのは秋山だった。右ストレートで三崎をダウンさせる。秋山の勝利は目前だった。しかしその直後、轟音のようなファンの声援に後押しされた三崎の左フックが秋山のアゴを射抜く。続けざまの蹴りが鼻を捉えて、試合は終わった。
この“敗戦”は、秋山と、そして観客にとって幸福なストーリーの始まりになるはずだった。反則の禊をすませ、どん底から這い上がっていく。そんな秋山には“敗者のドラマ”を読み取ることができる。初めて観客との接点が生まれようとしていたのだ。
だが、そんな“ストーリー”は秋山自身の手によって覆された。フィニッシュが反則である“グラウンド状態の相手に対するキック攻撃”ではないかとして抗議文を提出したのだ。裁定はノーコンテストに変更された。
正しいジャッジを求めて抗議するのは、競技者の姿勢として当然である。ただ、そのようにストレートに受け止めたファンは多くなかった。彼らは、下がった溜飲を押し戻されたような気持ちになったのではないか。
秋山は、ファンが望むような“ドラマ”の登場人物になってくれなかった。この時から、秋山はヒールを越えた理解不能の“異物”となった。
撮影を終え、レストランに席を移してのインタビュー。秋山は何度も「自分は自分なんで」、「それが僕なんだから仕方ない」と言った。
その言葉は、彼の歩んできた格闘技人生と無縁ではないだろう。在日韓国人4世として大阪に生まれ、3歳で柔道を始めた秋山の前に立ち塞がったのは、国籍ゆえ日本代表にはなれないという現実だった。大学卒業後、母の故郷でもある釜山へ。市役所に在籍しながら韓国代表として国際大会優勝を果たした“チュ・ソンフン”だが、国内トップの座に定着することはできなかった。原因は、韓国柔道界を支配する学閥である。選手も審判も特定の大学出身者で固められており、秋山は偏った判定に何度となく苦しめられたのだ。
失意のまま日本に戻った秋山は、2001年9月、日本に帰化する。翌年にはアジア大会で優勝を果たした。何かの因縁なのか、舞台は釜山だった。しかし、この優勝も純粋なハッピーエンドではなかった。韓国の一部メディアは、国籍を変えて祖国で栄冠を勝ち取った秋山を“裏切り者”として扱ったのだ。2年後の2004年、彼はアテネ五輪代表権をかけた全日本選抜体重別選手権で敗れ、その年にプロデビューを果たす。
日本でも韓国でも。日本人としても韓国人としても。秋山は常に何かに阻まれ、疎外されてきた。そんな経験について尋ねると、秋山はこう答えた。
「いい部分も悪い部分もあったけど、今はありがたいことだと思ってます、いろんな経験させてもらって。韓国で柔道をやったことで、物事は一面的じゃない、単純なものじゃないっていうことが分かるようになったんです。そのことで、自分もいろんな方向からものを見られるようになった」
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