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ついに生まれなかった闘争心。 

text by

戸塚啓

戸塚啓Kei Totsuka

PROFILE

posted2006/07/24 00:00

 オシムの代表監督就任に続いて中田英寿の現役引退が発表されたことで、世間の注目はいよいよポストW杯に向いている。しかし、このまま何の反省もなく新しいページを開いていいはずはない。

 ドイツW杯を検証しなければ、新チームの方向性もはっきりしない。新監督に何を求めるのかも明らかにならない。ベスト16入りを阻んだ要因は何だったのか。世界にあって日本になかったものは何なのか。4年後の南アフリカへの指針を整理しなければ、日本にとってのドイツW杯は終わらないのだ。

 昨年6月にアジア予選を突破してから、私はディフェンスをベースにしたゲームプランの重要性を指摘してきた。昨年6月のコンフェデ杯のメキシコ戦では、先制点を奪いながら逆転負けを喫した。同年10月のラトビア戦では、2点のリードを守り切れなかった。今年に入っても同じようなゲームが続いた。5月30 日のドイツ戦でも、2点のリードをはね返されている。

 アジア以外の対戦相手とのゲームでは、日本の組織が機能してもなお押し込まれるのは避けられない。それだけに、守勢をいかにしのぐかは勝敗に直結する。ディフェンスをベースにした試合運びができるか否かは、グループリーグ突破へのカギだった。

 5月の福島合宿やドイツ入り後のボン合宿では、戦術的なトレーニングが行われた。中田英とチームメイトの意見交換が報道され、組織が熟成しているような印象を与えた。

 しかし、遅きに失した感は否めなかった。直前まで確認すべき項目を残したところに、そもそもの間違いがあったのではないか。

 日本人のポテンシャルを、ジーコは誰よりも信じていた。1年前のコンフェデ杯でギリシャやブラジル相手に見せたプレーを、今回も再現できると信じていた。ドイツ戦で3-5-2のシステムがまずまず機能したことも、自信を深めることにつながったと推測できる。

 しかし、フィジカルコンディションが十分ではなかった。「オーストラリア戦は決勝戦のつもり」と位置づけながら、もっとも重要な一戦で動けない選手が続出してしまったのは、暑さだけが原因ではない。コンディショニングを誤ったと考えるのが妥当だ。

 ジーコと里内猛フィジカルコーチは、「日本はフィットネスに問題を抱えていた」というオーストラリアのクリナの言葉を、決して聞き流すことはできない。プレスの質と量は、個々の活動量を前提としている。コンフェデ杯のパフォーマンスも個人の頑張りに基づいていたことを、ジーコは軽視していたのだ。

 90分を戦い抜くスタミナがなければ、時間の経過とともに劣勢に陥るのは必然である。コンディションが十分でなければ、ミスをカバーできないし、相手のミスを誘発することもできない。ディフェンスをベースにしたゲームプランから、大きくかけ離れてしまう。もはや相手の攻撃をゴール前ではね返すしか、守りの選択肢はない。

 帰国後の記者会見でジーコは、オーストラリア戦でいかにDFが疲弊していたかを明かした。日本人の肉体が激しい競り合いの連続に耐えられなかった、と説明した。

 それは、W杯を戦わなければ分からなかったことなのか。最初から予想されていたはずだ。直前のドイツ戦でも、後半はクロスの集中砲火を浴びていた。そこから失点を喫していたではないか。

 だから私は、オーストラリア戦の敗北は大会前の課題が噴出した結果だと考える。2月のアメリカ戦やボスニア・ヘルツェゴビナ戦を、本当の意味で教訓にしなかったからだ、と。クロスの雨にさらされて自陣に釘付けにされ、セカンドボールを拾えずに呼吸困難に陥ったのは、これが初めてでないのだ。

 ジーコが効果的な選手交代をしていれば、オーストラリア戦の結果は違っていたかもしれない。この試合に比べれば適切な采配をしたクロアチア戦にしても、ジーコは大黒の投入をぎりぎりまで引っ張るミスを犯している。

 ただ、責任のすべてを監督に押しつけるのは正当性を欠く。選手にも問題はあった。

 スタミナの消耗に伴って、集中力や判断力は鈍っていく。身体のキレも失われる。だとしても、日本の選手たちはあまりに無策でなかったか。

 オーストラリアに圧倒的に押し込まれていた時間帯でも、いつもと同じパス回しにこだわった。自陣からのビルドアップを捨てようとしなかった。

 経験という引き出しを、ここで開けられなかっただろうか。自陣からのビルドアップはジーコが決して譲らなかったコンセプトだが、狙いどころを絞られる弊害は過去のゲームから明らかになっていた。センターラインの手前でボールを失い、数的優位を作られて反則を犯す悪循環が繰り返されていたのだ。経験をもとに判断すれば、リードしている時点で失点の兆候を感じ取れたはずである。

 疲れ切った身体では、適正な高さまでDFラインを押し上げるのは難しい。どんなに頑張っても限度はある。しかし、そのわずかな違いが極限状態では大きな価値を持つ。

 筋力に恵まれた外国人選手に比べると、日本人はヘディングのクリアボールの距離が短い。外国人なら2列目の選手の頭を越えられる場面でも、日本のクリアはセカンドボールとして拾われてしまうことがある。わずかな距離の差が戦況に与える影響は小さくない。

 DFラインを押し上げるのは、その足りない距離を補うためでもあるのだ。それが、失点のリスクを抑えることにつながる。

 オーストラリア戦の終盤に求められたのは、ビルドアップの意図的な放棄だった。どんな手段を使ってもいいから、相手の攻撃の流れを断ち切るべきだったのだ。ロングボールに有効性を見出せなければ、徹底してクリアを続けてもいい。接触プレーで故意に倒れてもいい。オーストラリアを焦らせる方法は、いくらでもあったはずである。

 ベンチが頼りにならないのであれば、選手自身が能動的に試合を進めていくしかない。間合いを取るしかない。選手交代に積極的でないジーコのもとで戦ってきた六十数試合に意味を持たせるのは、監督任せではない選手自身の判断でなかったのか。

 ジーコと過ごした4年近い日々は、順風満帆にはほど遠かった。アウェーのテストマッチや国際大会で注目すべき好結果を残した反面、真剣勝負はいつも紙一重だった。

 自らの立場をしばしば危うくさせた僅差のゲームに、ジーコは「修羅場をくぐってきた精神力」を見出していた。私もそう思っていた。アジアの舞台で培った経験でも、W杯で苦境を切り抜ける手助けにはなる。それこそは、4年前のトルコ戦で得た教訓でもある。

 ところが、選手自身が経験を生かすことを拒んだ。ドイツW杯のチームが観る者に言いようのない物足りなさをもたらしたのは、Jリーグはもちろんテストマッチでも当然のように使ってきた狡猾さや泥臭さを、日本に置き忘れてきたからに他ならない。

 日本代表の責任感は、この程度のものなのか。

 こんなデータがある。

 今大会の日本は3試合で27本のシュートを記録したが、これは32カ国のなかで7番目に少ない。クロアチアは33本、オーストラリアは46本(イタリア戦を除く)である。日本と同じように2得点しかあげられなかったパラグアイは39本で、1ゴールに終わったアンゴラでさえ34本を記録している。

 シュート数との関連で注目したいのがクロスの数だ。日本の総クロス数は50本で、こちらは32カ国のなかで6番目に少ない。日本よりシュート数が少ないセルビア・モンテネグロは67本、トーゴは54本、アメリカは75本を数える。シュート、クロスともに日本より少ないのは、サウジアラビアとチュニジアのわずか2カ国だけである。

(以下、Number657号へ)

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