酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「たかが選手が」発言、じつは続きが…渡辺恒雄がファンに嫌われた“ナベツネなりの巨人・野球愛”「打者は三塁へ走ってはいかんのかね」
posted2024/12/20 17:05
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
JIJI PRESS
12月19日、読売新聞グループ本社渡辺恒雄代表取締役主筆が亡くなった。大正15年生まれ、満98歳だった。
沖縄にいた巨人OBに話を振ってみると…
ただ申し訳ないが――野球界の人は「渡辺恒雄氏」などと呼んだことはないはずだ。みんな「ナベツネ」「ナベツネさん」と呼んでいた。渡辺恒雄氏というのは、違和感がある。
スマホにこのニュースが流れてきたとき、私は沖縄のジャパンウィンターリーグ(JWL)の取材で、コザしんきんスタジアムに来ていた。目の前に、JWLのGMをつとめる大野倫さんがいた。大野さんは沖縄水産時代にエースとして夏の甲子園で準優勝。その後野手に転向し、1996年に九州共立大からドラフト5位で巨人に入団している。
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この時、渡辺氏は読売新聞社社長、最高経営会議メンバーだった。同年12月、正力亨オーナーを名誉オーナーにして、読売ジャイアンツオーナーに就任している。
「渡辺恒雄さんが亡くなりましたね?」
「あ、そのニュース、さっき知りました」
「渡辺恒雄さんとの思い出ってありますか?」
「うーん、僕は一選手だったから、そんなにないですね」
「直接話をしたことはありますか?」
「燦燦会(財界による読売ジャイアンツ後援会)の席上で、他の選手と一緒に激励されたくらいですね。偉大な方だったと思いますけどね」
とのことだった。雲の上の人だったのだろう。
一説には1978年の「江川事件」のときに、キャンプに向かう途中だった巨人のエース小林繁を羽田空港から呼び戻した現場に渡辺恒雄氏がいた、とも言われている。
しかし当時の渡辺氏の役職を考えると、関与したとしても主役級ではなかったのであろう。渡辺氏が読売ジャイアンツと深くかかわったのは、1989年に最高経営会議メンバーになってから。そしてワンマンぶりを発揮し始めたのは、前述のとおり1996年、正力亨オーナーを名誉オーナーにして読売巨人軍オーナーに就任したタイミングである。
20年前、「たかが選手が」で始まったプロ野球変革
渡辺恒雄氏は、間違いなく、日本のプロ野球が変革するに際して決定的な役割を果たしていた。
それも「たった一つの言葉」で。