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「16歳で将棋の稽古料…麻雀クラブと生ビールに」51歳で死去“元天才少年”の壮絶人生「俺はもう名人になれないのか…」“自爆敗戦”に涙した日
text by

田丸昇Noboru Tamaru
photograph byKyodo News
posted2024/12/09 06:00

1963年の芹沢博文。“天才少年”と呼ばれた棋士は、51年という太く短い人生を生きた
師匠の高柳は、内弟子の分際で遊び回っている芹沢の素行に、うすうす気が付いていたようだが、将棋の成績さえ良ければと大目に見ていた。
芹沢は1955年に四段に昇段し、19歳で棋士になった。それを機に師匠の家を出て、東京・東中野にアパートを借りた。後年に刊行したエッセー集には、《もう自由である。小鷲は天に放たれたのだ。賭博、酒、女にと励んだ。先輩棋士には新橋でキャバレー道を学んだ。新宿二丁目や花園神社の界隈でも遊んだ》という内容の記述がある。
勝てば対局料が…不純な動機でもA級に昇進
芹沢は遊ぶ金が必要となり、公式戦の対局で必死に指した。持ち時間をフルに使い、深夜の12時頃になると負ける気がしなかったという。体力もあふれていた。勝てば対局が増え、対局料がそれだけ入ってくる。不純な動機だったが、将棋に打ち込んだことで、棋士のランクの根幹である「順位戦」でも昇進を重ねた。
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芹沢は1956年度の順位戦から参加した。2期目の57年度は12勝3敗でC級1組へ昇級。58年度は10勝2敗でB級2組へ昇級。59年度は10勝2敗でB級1組へ昇級。60年度は10勝1敗でA級に昇級。
芹沢は順位戦で4期連続昇級した俊英ぶりで、トップのA級に躍進した。本格的な居飛車党で棋理に明るく、スケールの大きさに特徴があった。いつしか名人候補と嘱望され、本人もそれを目指していた。61年度のA級順位戦では5勝4敗の成績を挙げた。
芹沢は22歳のとき、1歳年下の内山和子さんと結婚した。芹沢が10代の頃から出入りしていた麻雀クラブの経営者の娘だった。当初は口をきいたこともなかったが、いつしか交際に発展したという。
中原には「天才少年にありがちな傲慢さがなかった」
1958年の春に10歳の少年が宮城県から上京し、高柳八段の自宅で内弟子生活を始めた。天才少年の呼び声が高い中原誠(現十六世名人)だった。芹沢は中原の指導役を師匠に頼まれた。
中原は新婚の芹沢が住むアパートに日曜日の10時に訪れると、指導対局を受けた。芹沢はたまの休日は読書をしたかった。さっさと負かして早く帰したいと思った。しかし対局が終わると、中原は駒をすぐに並べ直した。
「もう一局お願いします」
そんなことを何回も繰り返し、夜になっても勝つまでは帰らなかった。
芹沢は伯楽として、棋士の才能を推し量る観察眼に秀でていた。少年時代の中原についてはこう評している。