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「自分で歩きよった。他の選手が支えてくれて…」中1で“骨肉腫”に罹った名門ボーイズ選手の話…闘病を支えた仲間たちとの「その後」
text by
清水岳志Takeshi Shimizu
photograph by本人提供
posted2024/07/05 17:03
名門・生駒ボーイズ所属時代に骨肉腫に罹った音野峻也。現在は病を克服し、強豪・東北福祉大で学生コーチを務める
それは藤原にとっても鮮明な記憶となった。
「峻也の歩幅に合わして歩いた。僕らも親たちもよくここまで復帰してくれたと感動してました」
入院中に見舞いに行くたびに車椅子の音野から、早くグラウンドに行きたいという思いが伝わっていた。
「峻也が頑張るからこっちも頑張る、こっちも頑張るから峻也も頑張る。峻也の分まで野球をやれてるのは全員がわかってましたし、言い方が難しいですが、峻也の頑張りがプラスになるというか。生駒ボーイズに入ってなかったら峻也と出会うこともなかった。いろんなことが重なった中学時代で、かけがえのない時間になってます」
淳一は音野の文句も泣き言も聞いたことがなかった。「よう、がんばってくれた」としみじみという。
「球拾いをするにも、ボールのところに行くのに他人より、倍の時間がかかる。でも、黙々とやりよる。それを周りの人も見守ってくれた」
石田監督は音野の野球に対する向き合い方を評価していた。
高校進学の面談の時に「立派にやってるじゃないですか。僕に任してくれませんか」と両親に持ち掛けた。
病気を克服→上宮太子高でも野球部に
音野は元山飛優の進んだ長野県の佐久長聖高に行けたらと思っていた。だが骨肉腫は、5年間は再発の恐れもある。「地方に行くのは避けたほうがいい」と病院からの意向もあった。結果的に石田が監督と懇意で、チームの先輩もいる上宮太子高に進学することが決まった。
高校でも野球部に入った。学生コーチになった。2年生の春に試合前のノックを打つ役割を与えられた。
「ノックを見に行くのが楽しみでした。試合には出えへん、ってわかってる。ノックが終わると応援席にあがってきますから」
父は、その7分間を見にいった。
上宮太子でも先輩が優しかった。坂道やバス停までは、おぶってくれることもあった。そもそも2年生がノッカーをすることも珍しい。一つ上の学年が音野のノックを受け入れた優しさがあったということになる。
太子高校の3年夏は、コロナ禍に見舞われた。学校が休校になり、近くの寺に集まって練習した。独自大会では大阪桐蔭と当たって、9対4で敗れた。