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交代→激怒のヤクルト助っ人にズバリ「おまえの嫌うことをあえてやった」“やる気ゼロの弱小球団”がまさかの優勝…広岡達朗の“挑発”で激変
posted2023/05/13 06:03
text by
阿部珠樹Tamaki Abe
photograph by
Noriko Yamaguchi
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語っていた「2人の師」
「今なぜ広岡なのか」と問う人があれば答えたい。「今だからこそ広岡なのだ」と。監督生活7シーズンでリーグ優勝4回、日本一3回。両リーグの異なるチームで日本一になった監督は広岡のほかに三原脩、水原茂のふたりがあるだけである。圧倒的な実績の一方で、「軍隊式の管理野球」「選手の人間性を無視する非情な指導者」といったレッテルを貼られたこともあった。だが、ユニフォームを着ているときも、その後、解説者やGMとして活躍しても、その姿勢はつねに一貫していた。
直言。悪いことは悪い。良いことは良い。妥協を排し、筋を通す。日本型の談合と慣れ合いがはびこる球界で己を貫き、批判を恐れない。広岡達朗のきれいに伸びた背筋は、指導者のふらつきが目に余る時代だからこそ強烈な光を放つ。「今だからこそ広岡」なのだ。
ぶれない男も生まれながらに指導者だったわけではない。もちろん師はあった。ふたり。
「ぼくが選手のときの監督は水原さんと川上さん。水原さんはうそのない清廉な人柄、ジェントルなスポーツマンでね。ほんとうに尊敬できた。うまく行けばほめるし、ダメならはっきりけなす。試合に出ている以上は少々のケガでもプロならやって当たり前。そういう姿勢を教わった。川上さんは勝負の厳しさを教えてくれた人。時に非情なことをしても勝つ。その信念が揺るがなかった。戦術や人柄よりも、その信念に影響を受けたね」
'66年に現役引退→アメリカへ
現役引退後、広岡は4カ月メジャーの視察をした。'60年代のひとり旅で苦労も多かったが得るものも多かった。
「新鮮な驚きがあったのは投手のローテーション。日本はエースが先発もリリーフもして、3連戦に2回登板なんてことを平気でやっていた。ところが向こうは中4日で各投手に先発させていた。不思議だったが、考えて分かった。アメリカは平等という原理原則で動く。投手もしかりで登板機会を与えないのは差別になる。エースだけ投げさせて勝てばいいという日本とは違う。その中で機会を与えられた選手が育つ。人を生かすには責任を与えることだ。ローテーションを見て痛感した」