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美女、マフィアのドンにマラドーナ…「史上最もつまらない大会」1990年イタリアW杯の思い出と、ディエゴからの「グラシアス」
posted2022/09/20 11:00
text by
近藤篤Atsushi Kondo
photograph by
Atsushi Kondo
1986年の3月、僕は大学を卒業した。
3年間住んだ下宿の荷物を整理し、大事にしていた村上春樹の本や、カール・カールトンのLPなんかを後輩に譲ると(今でも後悔している)、ロスアンジェルスまでの片道航空券を買い、5月下旬のある日、東京を出た。2週間ほどカリフォルニアの友人宅に滞在したのち、メキシコシティへと飛んだ。
それなりにまともだった私立大学の同級生たちは大方がどこかの企業に就職し、残りは大学院へ進んでいた。プータローの道を自ら選択したのは、同期ではたぶん僕一人だけだったと思う。
実を言うと、4回生の秋だったか冬だったか、生まれ故郷のある代議士が、僕のためにとある会社に就職先を見つけてくれてはいた。それはアメリカでトップテンに入る巨大商社、ものすごい数のパテントを持ち、世界中に武器を売っている会社だった。「極東支局長の秘書の席を見つけておいてあげたから」。ある夜、銀座のクラブに呼び出されそう伝えられた。
僕は頭を下げて答えた。
ありがとうございます! でも実は大学を出たら世界を見て歩こうと思っているんです。
ボコリ! 上から怒りのゲンコツが落ちてきた。
僕は思った。「世界」じゃなくて「W杯」を見にいくんですと言わなくて良かったなと。そんな感じで、僕は人生で初めてのワールドカップを1986年のメキシコで体験し、その後の人生でミサイルと戦闘機を売らずに済んだ。
ファールとバックパスばかりのイタリアW杯
2度目のW杯は1990年のイタリアだった。
メキシコのあと、僕はバックパッカー生活の末にアルゼンチンのブエノスアイレスに流れ着き、職業はいつの間にかカメラマンになっていた。とりあえず機材を揃え、南米大陸をぐるっと周り、買ってもらえそうな写真を撮っていた。アタカマ砂漠、リャマ、マチュピチュの遺跡、タンゴダンサー、コパカバーナのビキニの女の子。でも一番の売れ筋はやはりサッカーの写真だった。
1990年6月8日、初回のウルグアイ大会から数えて14回目のワールドカップは、ミラノのジュゼッペ・メアッツァを舞台にアルゼンチン対カメルーンの試合で幕を開けた。