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美女、マフィアのドンにマラドーナ…「史上最もつまらない大会」1990年イタリアW杯の思い出と、ディエゴからの「グラシアス」

posted2022/09/20 11:00

 
美女、マフィアのドンにマラドーナ…「史上最もつまらない大会」1990年イタリアW杯の思い出と、ディエゴからの「グラシアス」<Number Web> photograph by Atsushi Kondo

若き近藤篤さんの写真が採用された『フランス・フットボール』誌の表紙とアザーカット。アルゼンチンは決勝で西ドイツに破れた

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近藤篤

近藤篤Atsushi Kondo

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Atsushi Kondo

 4年に一度のサッカーの祭典、FIFAワールドカップ・カタール2022が11月20日に開幕。今大会では、なんと全64試合をABEMAが無料生中継します。ならばNumberも一緒に大会を盛り上げようということで、「Number渋谷編集室 with ABEMA」を期間限定で開設し、従来のNumberとは一味違ったコンテンツをNumberWebを通じて配信。「渋谷編集室お披露目」に続く第2回では、渋谷編集室のスペシャル編集メンバーで、フォトグラファーの近藤篤さんによるW杯フォトエッセイ「on that moment」をお届けします。

 1986年の3月、僕は大学を卒業した。

 3年間住んだ下宿の荷物を整理し、大事にしていた村上春樹の本や、カール・カールトンのLPなんかを後輩に譲ると(今でも後悔している)、ロスアンジェルスまでの片道航空券を買い、5月下旬のある日、東京を出た。2週間ほどカリフォルニアの友人宅に滞在したのち、メキシコシティへと飛んだ。

 それなりにまともだった私立大学の同級生たちは大方がどこかの企業に就職し、残りは大学院へ進んでいた。プータローの道を自ら選択したのは、同期ではたぶん僕一人だけだったと思う。

 実を言うと、4回生の秋だったか冬だったか、生まれ故郷のある代議士が、僕のためにとある会社に就職先を見つけてくれてはいた。それはアメリカでトップテンに入る巨大商社、ものすごい数のパテントを持ち、世界中に武器を売っている会社だった。「極東支局長の秘書の席を見つけておいてあげたから」。ある夜、銀座のクラブに呼び出されそう伝えられた。

 僕は頭を下げて答えた。

 ありがとうございます! でも実は大学を出たら世界を見て歩こうと思っているんです。  

 ボコリ! 上から怒りのゲンコツが落ちてきた。

 僕は思った。「世界」じゃなくて「W杯」を見にいくんですと言わなくて良かったなと。そんな感じで、僕は人生で初めてのワールドカップを1986年のメキシコで体験し、その後の人生でミサイルと戦闘機を売らずに済んだ。

ファールとバックパスばかりのイタリアW杯

 2度目のW杯は1990年のイタリアだった。

 メキシコのあと、僕はバックパッカー生活の末にアルゼンチンのブエノスアイレスに流れ着き、職業はいつの間にかカメラマンになっていた。とりあえず機材を揃え、南米大陸をぐるっと周り、買ってもらえそうな写真を撮っていた。アタカマ砂漠、リャマ、マチュピチュの遺跡、タンゴダンサー、コパカバーナのビキニの女の子。でも一番の売れ筋はやはりサッカーの写真だった。

 1990年6月8日、初回のウルグアイ大会から数えて14回目のワールドカップは、ミラノのジュゼッペ・メアッツァを舞台にアルゼンチン対カメルーンの試合で幕を開けた。

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