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美女、マフィアのドンにマラドーナ…「史上最もつまらない大会」1990年イタリアW杯の思い出と、ディエゴからの「グラシアス」
text by
近藤篤Atsushi Kondo
photograph byAtsushi Kondo
posted2022/09/20 11:00
若き近藤篤さんの写真が採用された『フランス・フットボール』誌の表紙とアザーカット。アルゼンチンは決勝で西ドイツに破れた
参加国の数は今と違って24カ国、4チームずつの6グループに分かれてグループ1位と2位、そして3位の中で上位4チームがベスト16に進むという方式だった。
試合に関しては予選から決勝に至るまで、覚えている(というか覚えておきたいと思える)試合が一つもないくらい、ひどい内容のものばかりだった。やたらとファールの数が多く、やたらとバックパスだらけで、異常にゴールの少ないW杯だった。唯一の救いは、周りにはものすごくたくさんの美女と美男がいて、美しい景色がどこに行っても目の中に飛び込んでくることだった。
1990年の6月のイタリアで今思い出せることといえば、スタジアムに併設するプレスセンターでメディアのために供される食事が最高に美味しかったこと。フィレンツェの駅前で地元の女の子とデートの待ち合わせをしていたら、迎えにきてくれた彼女が財布を掏られて食事どころの騒ぎじゃなくなったこと。そして、シチリアのスタジアムのメディアセンターにある日年老いたスーツ姿の老人が現れて、周りの人たちが走り寄っては彼の薬指にはめられたものすごく大きな金の指輪にキスをし始め、後で聞いた話によると彼はマフィアのドンの一人だった、なんてことぐらいだ。
太ってもマラドーナ
そんなどうしようもなく退屈で地味な大会の中でただ一人、良い意味でも悪い意味でも世界のサッカーファンに話題を提供し続けたのは、アルゼンチンの神童ディエゴ・アルマンド・マラドーナだった。
ナポリの英雄は天真爛漫な振る舞いを続け、準決勝イタリア戦ではナポリのスタジアムで喝采を浴び、決勝の西ドイツ戦では首都ローマに集った北部の人々からブーイングを浴びた(西ドイツには、インテルに所属していたマテウスらがいた)。メキシコ大会に比べるとコンディションは悪く、全盛期の60%程度の出来だったが、それでもやっぱり腐っても鯛、太ってもマラドーナではあった。
カメラマンとしての話に戻そう。
フリーランスとしてワールドカップに参戦するカメラマンは、とにかく売れそうな写真を撮って買ってくれそうなところに送る、という作業を繰り返す。1990年、写真というのはまだフィルムの時代で、ネットなんてものはまだなかった。