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長谷部誠18歳が膝を抱えて泣いた日 “荒川行き”を命じたオフトの狙い、浦和レッズ同期・坪井慶介の記憶「つまり僕は長谷部の能力を…」
posted2022/08/27 17:02
text by
島崎英純Hidezumi Shimazaki
photograph by
J.LEAGUE
(全2回の2回目/#1も読む)
記録的な酷暑に見舞われるヨーロッパ・ドイツで、陽炎(かげろう)が揺れている。
20年以上も前の自分に、まさか異国の地で暮らし、“ある選手”のプロサッカー人生を目撃し続けることなど想像できただろうか——。
私がこの職に就いたのは2001年の夏。一般企業の営業マンからサッカー専門誌の編集記者へと転職し、当時の編集長からJリーグの浦和レッズ担当を拝命したのが全ての始まりだった。
当時の浦和は低迷を続けていて、2002シーズンから元日本代表監督のハンス・オフトに再建を託した。11人の新加入選手、そのうち新卒が10人という補強策を敢行して大刷新を図ろうとしていた。
取材経験の乏しい私は、シーズン始めから密着するこのチームに愛着を抱いていた。ちなみに当時新卒だった選手たちも今では大半が現役を退いていて、引退後には彼らと交流を深めて新たな関係性を築いていたりもする。
そして、その中には、静岡県の藤枝東高校から加入した18歳の長谷部誠もいた。
平川、坪井、堀之内ら大卒組と比べると……
2002シーズンの浦和の新加入会見はさいたまスーパーアリーナで行われたが、正直言って、私の中で当時の長谷部の印象は薄い。
平川忠亮(現・浦和コーチ)、坪井慶介(現・解説者)、堀之内聖(現・浦和強化部)など、後に浦和のレジェンドとなった大卒選手たちが自信に満ち溢れた表情でプロとしての抱負を述べる中で、長谷部を含めた18歳の高卒選手たちはいきなり表舞台に引き上げられて少し戸惑った素振りを見せていた。
ちなみにこの年の高卒で最も注目されていたのは全国高校サッカー選手権で優勝した国見高校のキャプテンGK徳重健太(愛媛)で、長谷部はメディアやサッカーファンの間でも特に注目されていなかった。
荒川の河川敷で自主練を強いられた時の心境
浦和の指揮官に就任したオフトは厳選されたメンバーでチーム強化を進めたい意思があったため、シーズン開幕前に実施した鹿児島県指宿市での強化キャンプに新卒選手のほとんどを連れて行かなかった。
オフトが選んだのは平川と坪井のふたりだけで、長谷部を含めた残りの8人は当時チームが練習場として借りていた旧浦和市内近郊の荒川の河川敷グラウンドで自主練習を強いられ、私のようなメディアの目に留まる機会が極端に減っていた。
長谷部本人は当時、“荒川行き”を命じられたときの心境をこう語っている。